2020/12/31
大晦日17時。外は雪で、これから元旦にかけて平野部でも積雪があるとの予想ですが、いまのところツツジなどにうっすらと積もっている状態です。11月頃からコロナウイルス感染者数がじわじわと増えてきた状況を鑑みて、早々に除夜の鐘つきを中止としたので、少し余裕を持ってこの時間をすごしています。岐阜県の本日の新規コロナウイルス感染者数は過去最多の83人。昨日の岐阜市での新規感染者は18人。法事、お定飯(月忌参り)などの法務にはエチケットとしてマスクを着用するようにしているこの頃です。
コロナ禍のもと、さまざまな事態に対処しているうちに、あっというまに年末を迎えた一年でした。4月から5月の緊急事態宣言下は緊張の中で法務に出たことが思い出されます。お定飯や法事の多くはお休みとなり、先の見えない不安の中でお寺や仏教から、ないし私個人がいまこの時代に存在することの意味までも含めてさまざまに思ったことでした。そんななか、著者の小谷信千代先生から御恵投いただいた『曇鸞浄土論註の研究ー親鸞「凡夫が仏となる」思想の原点』法蔵館、2020年3月刊をじっくり拝読できたのは有意義でした。親鸞聖人の浄土思想を理解するうえで欠かせない曇鸞大師の『浄土論註』に、この時期にあらためて帰る機会を得られたことはとても有り難いことでした。
それまでも法務でご門徒のお家にでかける以外は基本的にお寺で種々の仕事をこなすのが毎日の基本的なあり方だったので、コロナ禍によって生活スタイルが大きく変わることはありませんでしたが、それでも外出をすることが大幅に減少した一年でした。毎年恒例の大谷本廟参拝や念仏奉仕団参加のための旅行も本年はとりやめとなり、数少ない旅行の機会さえ失って、いよいよ屋内で過ごす時間が多くなりました。ただ、そうした状況になって、オンラインで勉強会に定期参加できるようになったことは、このコロナ禍でのほとんど唯一の収穫といえるかもしれません。この夏は、そのことも後押しして、廃棄を怠って長年部屋の隅に積んでいたパソコン関係の機器を整理するなど机まわりをかたづけ、さらにその勢いでお寺の事務まわりも見直したことでした。
秋以降はとあらためて思い返しますと、とくに何かをしたという記憶がないことに驚くばかりです。「善徳寺ひろば」でご報告のように今年は報恩講を9月12日に引き上げて、以後はお寺の行事をすべて取りやめたので余計にそんな気がするのかもしれません。日々の法務に追われただけでいつのまにか年末になってしまった思いがいたします。今年はご門徒の皆さんやさまざまな方々と語り笑う機会を持てず、大切なものを維持できぬばかりか、多くを失わせてしまったのではないかと危惧するばかりです。
いまは国内でもコロナウイルス感染者が日々増加して心配な状況にあります。そんなときに、疲労と緊張のなかで年末年始に関係なく日々いのちに向かい合っておられる医療関係の方々には感謝と尊敬の念しかありません。一個人としては、この年末年始の期間もできるかぎり外出等を控え、せめてウイルスの感染拡大に関与しないよう、心がけようと思っています。どなたも、どうかお身体に気をつけて穏やかな年始をお迎え下さいますよう。
2020/04/19
「世界的なコロナ禍により、戸外で親しい人と時を忘れて親密に語りあったり、大口をあけて声を上げて笑いあったりすることもひかえざるをえない日々が続いています。お寺としても、この事態にどう対応してよいのか困惑するばかりですが、まずは寺報を皆様のもとにおとどけすることを思い立った次第です。」
4月7日に岐阜県下にコロナ新型ウイルス感染症に対処するべく緊急事態宣言が発令され、その後も全国的に事態が深刻化されてゆくのを承けて、取り急ぎこんな書き出しで、ご門徒向けの寺報を4月15日付で発行しました。その中で、「お寺みずからが聞法の機会を放棄することは大変に申し訳なく、まことに残念なことですが、ご参拝・ご助力いただく方々や、ひいては地域住民の皆様の生命に関わることです。ご本山、別院の各種法要行事もほとんどは中止となっていることもかんがみて、ひとまずは本年上半期の行事をすべて中止させていただくことにいたしました」とお知らせをしたのでした。岐阜市を含む近隣市町では5月末まで、市町立の幼稚園や小中学校、高校、特別支援学校の臨時休校を5月31日まで延長するような状況下、やむをえない判断です。「わたくしたちはみな、激流に流されている」と2500年前にお釈迦さまが言われたことばが、これほどリアルに感じられる日々が現代世界に訪れようとは、ちょっと前までは想像もつきませんでした。どうか皆様ご自愛いただき、この困難をともに乗り越えたいものです。
2019/1/1 読書記
大晦日。朝からの掃除も片づき、N響の第九を見終わって風呂も済んで、あと1時間もすれば除夜の鐘という時間にしばらくぶりに記事を書こうとして、結局まにあわずに年が明けてしまいました。元旦にあたってまずは新年のお慶びを申し上げます。
ひさびさの記事は、昨年読んだ本の中で印象に残ったもののいくつかを取り上げてみます。
1はタイトル通り、同志社大学神学部で学んだ著者の自伝小説風作品。キリスト教神学(特に存在論や聖書学)に少し興味を持って手始めに読んだ一冊。無神論を学ぶために入学するも洗礼を受け、大学院修士を終えて、チェコに神学を学ぶために外交官となられるまでが書かれています。私は著者と同学年の生まれなので、同時代の京都を学生としてすごしたわけで、その点でも興味深く読みました。著者にはこのほか、キリスト教(プロテスタント)の入門書として、『神学の履歴書』『神学部とは何か』(ともに新教出版社)などがあって、こちらも有益でした。プロテスタント神学は佐藤さんというよい広報を得ました。
2の著者は、現在、東京大学東洋文化研究所准教授。初期仏教(原始仏教)に関する、とてもバランスのとれた、しかも新しくて面白い概説書。来年度の大学の仏教概論のような講座に、きっと多くの先生が基本図書の一つとして採用されることでしょう。次に切実に求められるのは、大乗仏教に関する、最新の成果を踏まえた同様の概説書でしょう。
3は若きボン大学教授(哲学)による、ポストモダン以後の「新しい実在論」を提起した話題の書。すべてのもの・ことを包摂するような全体としての「世界」はそもそも存在しないがそれ以外のすべては存在すると述べる中で、科学の限界を指摘し、他方で宗教や芸術の意味についても言及します。平易な言葉づかいと身近なたとえを用いて書かれてあるので、門外漢でも読み進められます。ポストモダンのニヒリズムを経て、「批判性・平等性の価値を再獲得する新しい啓蒙主義の運動」(訳者あとがき)を示した本として、おすすめします。仏さまの有りようを現代の視点から考えるということからしても示唆を得られる本なのではないでしょうか。
4は二人のジャズ演奏家・評論家による東大ジャズ講義録。バッハの「十二音等分平均律」からモダンジャズの台頭、さらにMIDIに至る音楽史を「音楽の記号化」というテーマのもとに一気呵成に怒濤のごとくたどりきるという講義を本に編集し直したものです。授業は実際に音源を教室で盛大に流しながら進めたものらしく、その時流した曲のデータが本に詳しく掲載されています。文庫本が十年前に刊行された本ですが、これをいま読んで楽しいのは、そうした音源を読者はいまではほとんどYoutubeから聴取できること。「あんな曲やこんな曲、果てはこんなフリージャズの曲までも大学の教室で流して講義するなんて、さぞかし痛快だったろうな」などと想像しつつ、一気に読みました。「キーワード篇」が続編にあるも未読。なお、お二人はこの後同様の仕掛けでマイルス・デイヴィスに特化した東大講義と書籍化をされています(『M/D マイルス・デゥーイ・デイヴィスIII世研究 上下』河出文庫、2011年)。先に手に取ったこちらの方もひどく面白かった記憶があります。
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付け足し: アバターとアヴァターラの距離(2004/3/13)