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付け足し: アバターとアヴァターラの距離(2004/3/13)

 

2004/4/30 新緑の季節、街の木々や山の緑が春の光に反射して様々な
色を放つようになると、冬の頃にはあんなに二次元的で平板だった風景がとたんに立体的に見えてきます。

いつものおまいりでのやりとりです。たがいに穏やかに笑みを浮かべながらの会話だったのですが:

「このごろはようけ自殺者が出て、年間に何万人も自殺でなくなっとるそうやね。わしゃ死ぬのはこわいし、自殺する勇気もない。けど、かといって、毎日何もせずに生きているのも、はりあいがない」

「そうですねぇ。でも、いのちは自分のものじゃなくて、いただいたものですからねぇ。それを、自分のいのちは自分のものだとして自殺してしまうのは、なんともさみしいですね」

「きれいごとはそうやが、しかし実際はきれいごとだけではすまされんわ」

「そうです。きれいごとではすみません。それだからこそ、阿弥陀さまにおまかせするということ、お念仏ということがあるはずなんですがねぇ」

「……死ぬこともできんし。どうやって生きたらいいんやろ」……

この方がこうおっしゃる事情は、長年お付き合いさせていただいているので、少しはわかっているつもりで、だから、簡単な答えなど出せるとは思っていません。また、これはとても深い問題です。

でも、私には、私が気づく以前からお念仏があった。私ならざるはたらきがはたらいていた。法の流れがあった。阿弥陀さまの願いがかけられていた。このことに気づかせていただいたとき、自分のいのちについて、生き方について、まったく違った見方が、開かれた受け止め方が、深い理解がえられるのではないかと思うのです。すりへってゆくいのちではない、本来ゼロの私がいただき続けているいのちである。このことを、うわべだけじゃなく、ことばだけじゃなく、きれいごとじゃなくて、本当にわかってゆきたいし、また、人にもわかってほしいと思うのですが……まだまだです。


2004/3/13 夕方、近くを散歩していたら、木蓮のつぼみがふくらみだして、
白い花びらがわずかに見えてきていました。3月始めにぶり返した寒さもどうやら去っていったようです。色の乏しかった冬の季節から、梅や桜など、さまざまな花が咲く季節へと移り変わっていくことが日に日に感じられるのは、やはりうれしいですね。

ネット関連の話題として、「アバター」についてちょっと書いてみたところ、少し分量が多くなってしまったので、「雑記帳のつけ足し」として別ページに載せることにしました。興味のある方はご覧下さい。  


2004/2/20 寒い風があいかわらず吹くとはいえ、
陽ざしは春の到来を感じさせる季節となってきました。今日など、日中の車のなかは、ぽかぽかしていましたね。

僧侶にとって、長時間坐りつづけるということは、今のところ、避けて通れないことのようです。もちろん、一口にお坊さんといっても色々ですから簡単に決めつけるわけにはいきませんが、私自身のことを申し上げれば、特に法事が入る土日休日は、極端にいえば、移動を除くと、朝から夕方までずうっと坐りっぱなしだったように思うことがあります。門徒さんのお家への移動も、少し距離があれば自動車を使わざるをえませんから、勢い、運動不足気味になってしまいます。特に寒いこの季節は体を動かす機会も減り、不健康な日々を送ることになります。

そんな不摂生のつけがまわって、1月後半から2月前半にかけて、胃もたれに悩まされました。結局病院にも行きましたが、なによりも、腹も減っていないのに習慣だけで食事を摂ることを反省し、食事の量を減らして弱った胃を回復させることが私には一番のようです。それとともに、やはり運動です。とはいえ、毎日定時にウォーキングする意志の強さも持ち合わせていません。そこで、いずれは粗大ゴミになるだろうとは思いながらも、室内用の運動器具を購入しました。といっても、ただ足を載せるペダルが二つあるだけの、5000円ほどの小さな歩行器具なのですが。

いまのところ、この歩行器具(というよりも、むしろ、麦踏み運動器というべきものなのですが)、けっこう重宝しています。時間の空いたときに少しずつ運動をすることができるので、わずかながらも運動不足を解消することができます。ただ、単調な運動なので、時には本を読みながら、退屈なのを紛らわしています。

最近読んだ本の中では、ウォルター・J・オング著『声の文化と文字の文化』がおもしろかった、といえば、何を今更、と思われる方もおられるかもしれませんが、……同書は、ことばが音声のみによって伝達される社会や文化と、ことばが文字に書かれうるものだということを深く内面化した文化とのあいだでは、人々の思考と表現に大きな変化が見られることを博覧強記の著者が論じるもので、一体、人間の意識というものは進化することがあるのか、という問いに対して、一つの解答を示している点でも興味深く、最初から最後まで、飽きることなく読むことができました。
 著者によれば、(1)ことばが文字に書かれうるものだということをまったく知らない(、つまりテキストというものが存在しない)社会や文化(声の文化)から、(2)こうした声の文化になお影響を受けながらも、ことばを文字という視覚対象として記録できることを知り、内面化した文化、(3)さらには従来の手書き写本に代わって印刷が普及した文化、そして、(4)文字が印刷からさらにコンピュータによって処理されるようになるに至る、各段階の文化において、人間の思考もそれぞれに変化しているとされます。しかし、

今日のわれわれの文化のように、ことばが文字に書かれうるものだということにあまりにも慣れてしまった文化においては、われわれは、ことばがもっぱら声として考えられているような社会や文化において人々がどのようにことばを発し、それによってどのように思考を組み立てているかということを、もはや想像することさえ難しくなっている。そればかりではなく、われわれは、知らずしらずのうちに、文字に慣れたわれわれがみずからの思考や表現を理解するような仕方で、そうした声の文化における思考と表現を理解してしまうのである。(訳者あとがきより)

文字に書かれたテキストというものを持たない声の文化においては、その文化に特有な思考や表現や記憶形成の仕方があり、それはたとえば、決まり文句への依存であったり、冗長な言いまわしであったり、保守的ないし伝統主義的であることという特徴を持つ。これに対して「書くことは、人間の意識をつくりかえてしまった」。さらに印刷術が普及すると、手書き写本の段階では困難だった、専門的な図絵などといった視覚情報が正確に反復できるようになり、これが近代科学の発達をもたらし、あるいはまた、「ますます個人主義に向かう人間の意識の傾向に、印刷は大きく奉仕した」。

手書き本の文化においては、テクスト間の相互影響は当然のこととして受けとられていた。手書き本の文化は、かつての声の世界の常用句の伝統にまだ結びついていたので、まったくそれを承知の上で、他の多くのテクストから一つのテクストがつくりだされたのである。つまり、もともとは口頭で流布していた〔みんなに〕共通の決まり文句やテーマが、借用され、手を加えられ、共有されていたのである。……〔それに対し〕印刷文化は、おのずからそれとは異なった精神的枠組みをもっている。印刷文化においては、一つの作品は、「閉じられたもの」、他の作品から切りはなされ、それ自身一つの単位となったものとして感じられる傾きがある。印刷文化が、「独自性」や「創造性」というロマン主義的な概念を生み出したのである。

印刷は、ことばの私有という新しい感覚をつくりだした。……書くこととともに、剽窃へのいきどおりが現れはじめる。

等々。声の文化と文字の文化という思考の枠組みは、インドの仏教典籍−−それは、最初期は口伝によって伝承され、やがて、およそ紀元前後に書写がなされるようになり、以後、口伝と声の文化を色濃く残した手書き写本とによって継承・発展していきました−−というものの性格を理解するうえでも大いに示唆に富むものであろう事は明らかで、実際のところ、あるインド仏教の研究者が本書に言及しておられたのが、本書を手にするきっかけの一つでした。しかしそれのみならず、上述の通り、人間の意識というものが、声の文化と文字の文化、さらには、文字の文化の中でも、手書き本の文化と印刷文化という、各文化段階においてそれぞれに変化しているという指摘には驚かされるものがありました。だけど、こうした人間の意識の変化を著者は「進化」であると言うのですが、果たしてこれを進化という肯定的なことばによってのみとらえてしまっていいのかなあ、という思いが少し残ります。ことばを文字として視覚化することは、「ことばを物として扱うことである」と著者が言われるように、ことばを実体化することであり、それは、ことばのもつ、私や世界を分節化(仏教語でいう分別)するというはたらきを、いよいよ強固なものにすることに他ならないはずです。龍樹さんや世親(天親)さんは、こうしたことばによる分節化こそ、迷いや苦しみの根源であると言われたのではなかったのか……文化の進展は、一方では、人間の混迷をより深めることでもあると言わねばならないのかもしれませんね。


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