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付け足し: アバターとアヴァターラの距離(2004/3/13)

2003/12/29 2003年も、もうすぐ終わろうとしています。
今年も、国外・国内でさまざまなことがありました。しかし自分を省みれば、「馬齢を重ねる」という言葉そのままの一年であったなあと、しみじみ思います。しかしまた、それだからこそ、馬齢を重ねる凡夫のままで、念仏もうす身にならせていただくことを、有り難いと思うこのごろです。

 子供の頃、忙しい寺の週末に家の中でウロウロされてはかなわぬということだったのか、本人はよくわからないままにボーイスカウトに入れさせられました。毎年夏になると、一番暑い頃に野山にキャンプに行ったのですが、時には、ほとんど手つかずの雑木林の中に放り出されるようなキャンプをさせられることもありました。くらくらするような暑さの中、野営地に着いたとたん、まず木を切り、草を刈り、テントを張って寝泊まりできるような場所をともかく確保し、そしてカマドや便所を設営し……そんなキャンプは本当に大変でした。怒ったり、泣いたり、笑ったり、しょげたりしながら、それでもなんとかキャンプの日々を過ごして、そして最後の晩には恒例のキャンプファイアーです。疲れて、早く寝たい方が先に立つのですが、夜空の下、井桁に組んだ薪が燃え上がるのを見ながら、こんな歌を歌っていると、とても穏やかな気持ちになり、心が開放されたような思いがしたものでした。

星かげさやかに 静かにふけぬ 
集いのよろこび 歌うはうれし 

なごりは尽きねど まどいははてぬ 
今日の一日の幸 静かに思う

 大晦日の晩、こちらは寒い夜空の下なのですが、除夜の鐘を突きながら月星や街の夜景を眺めていると、キャンプファイアーの夜に少し似た、穏やかですがすがしい思いがいたします。馬齢を重ねる一年をいただいた有り難さを静かに思う、といったところでしょうか…… まあ、ともかく、除夜の鐘を突いたご経験のない方は、ぜひ一度、近隣のお寺に行かれて、梵鐘を突き、本堂にお参りされてはいかがでしょうか。

追記: 上の歌(『一日の終わり』)にある、「まどいははてぬ」の「まどい」とは、「惑い」ではなくて、「円居・団居」と書いて、「1)人々がまるく並びすわること。親しく集まり合うこと。くるまざ。団欒。2)一所に集まり会すること。会合。」(広辞苑)の意味なのですね。恥ずかしながら、いまになってようやく判りました。(^^;

 

なにはともあれ、今年も一年間、おかげさまで、細々とではありますが、なんとかホームページを続けることができ、ありがとうございました。皆様どうかよいお年をお迎え下さい。


2003/11/30 もう一週間前のことになってしまいましたが、23日夕方、
日曜の法務が終わった、夕食前のひと時、家人を屋外に呼び出して、いっしょに国際宇宙ステーション(ISS)が天空を横切るのを見ました。いやあ、ちょっとした感動を覚え、また、なんだか得をした気分がしました。子供のころ、一時期、天体観測を楽しんだころの記憶や感動がよみがえりました。やっぱり、星空に限らず、ときどき自然の大きさに触れないといけないなあ、と、あたりまえすぎることですが、感じた次第です。

ISSの目視可能時間および軌跡は、宇宙航空開発研究機構(JAXA)のホームページに予測してあるとおりで、また天空の中で最も明るく見えたので、いとも簡単に見つけることができました。当日は、南東(写真左下)から北東(同右上)の方向に約5分間、遠くの空を飛行機が飛んでゆくような速度で通過してゆくのが見えましたが、下写真は、そのうちの13秒間の軌跡をデジカメでとらえたものを、トリミングして掲載しました。三脚にカメラ(キヤノン・パワーショットS40)を固定し、マニュアルフォーカスで焦点距離を無限遠に設定の上、シャッタースピード優先AEで13秒間(絞り開放)の露光。シャッターを押す振動でぶれないように、2秒間のセルフタイマーをセットし、カメラに手を触れずにシャッターが切れるようにしました。

あいにく、一番上の子供が昼間のハイキングの疲れから寝てしまい、せっかくの機会を逃してしまいました。次の好機には、一緒に見たいものです。皆さんも、一度ごらんになられてはいかがでしょうか。(JAXAといえば、29日に国産ロケットH2Aの打ち上げが失敗してしまいましたね。残念な結果になりましたが、次回はぜひとも成功してほしいですね。)

11月23日17時44分:南東(写真左下)から北東(同右上)の方向国際宇宙ステーション(ISS)


2003/11/22 日に日に日が短くなってきました。
これからは一年で最も早く日が暮れる頃。今頃は、大体4時半過ぎになると、太陽が地平線に沈みます。
 お寺には梵鐘(ぼんしょう)があって、当寺の場合、毎夕5時になると、家の者の誰かが日暮れの鐘を突きにゆきます。大体20〜30秒間隔で5回、そして最後に2回続けて打つのが当寺の突き方です。
 一週間に何度か、こうして鐘を突きながら空を見たり辺りの風景を見ていると、大きな時の移り変わりを感じることがあります。この頃は、陽が沈んだあとの景色を見ながら、いささか気が早いのですが、年の終わりに向かいつつあることを感じます。いまごろは、どうかすると、午後2時を過ぎると、なんだかもう夕方になったような気がすることがありますね。

いのちあふれる人の世は
朝がきて 日が暮れ
また夜があける
いまは この大いなるながれに
ただ手を合わすのみ

榎本栄一「凡下の合掌」

 ところで、数日前、偶然にも「国際宇宙ステーション・スペースシャトルを見よう」というホームページに遭遇しました。国際宇宙ステーション(ISS)とスペースシャトルが今どこを飛んでいるかが判るようになっているほか、「国際宇宙ステーションとスペースシャトルの目視予想情報」というのがあって、日本の各地から国際宇宙ステーションが見られる日時や見え方などを知ることができるようになっています。岐阜あたりでは、ちょうど明日、午後5時33分から38分にかけて、南西から北東に向けて飛んでいるところが、比較的好条件で目視できるようです。明日は5時の鐘を突いた後、子供達と共に空を見上げてみようかと思っています。

 また話は変わって。先日、公開いたしました「漢梵対照真宗聖教選集」ですが、以前の版では、漢字の部分について、私の使用している楷書体フォントでは表示できない不備がありました。明朝体フォントで代用できる箇所は明朝体で埋めてごまかしていたのですが、これを見られた長久寺様(HP山寺)のご住職、有國様が、讃仏偈・重誓偈・阿弥陀経に出る全漢字を網羅した楷書体フォントをご用意くださり、その利用を快く承諾していただきました。同時に、いくつかのミスも指摘して下さり、おかげさまで、よりよいものに仕上げることが出来ました。有國様には、重ねて御礼申し上げます。讃仏偈・重誓偈・阿弥陀経の漢文と梵文を対照しながら見てみたい、という方は、どうぞご利用下さい。


2003/11/5 いつのまにか街路樹も色づく頃になっていました。
11月になっていっそうあわただしい毎日ですが、季節の移り変わりも楽しみたいものです。

日頃のお勤めでおなじみの讃仏偈・重誓偈・阿弥陀経ですが、この漢文と梵文とを一目で対照して見られるものを作ってみました。こんなものがあるといいなと思って、個人的に作ったものにすぎませんが、利用される方もあろうかと思い、公開しました。B5版の用紙に印刷、袋とじに折って大きめのホチキスで綴じれば、小冊子になるようにしてあります。

お経の漢文と梵文が左右対照で並んでいるのを見ると、大げさにいえばちょっとした感動を覚えます。梵文の讃仏偈・重誓偈(つまり梵文無量寿経)はネパールに伝わったものだし、一方、阿弥陀経の梵本は、平安初期に中国から将来されて日本に伝わった悉曇本が公刊本の原本となっています。また、漢訳の無量寿経については訳経記録に問題があるようなので置いておくとして、阿弥陀経は鳩摩羅什という中央アジアのクチャ出身の人が西北インドで経典を得て、その後中国に渡って、402年に漢訳されたものです。このように、それぞれの漢訳や梵本は、それぞれに異なった状況下で様々な人々によって大切に伝えられてきたものであるのに、それを現代の私たちは容易に一望のもとに見ることが出来る機会をいただいている、ということになりましょうか。

なお、讃仏偈・重誓偈の漢梵対照については、梵文の下に和訳をつけたものも作ってみましたが、和訳者の著作権に配慮して、公開することは差し控えました(それじゃあ、お経に著作権はないのか、漢訳者や校訂者についてはどうなのか、ということになると、応えに窮してしまうのですが……)。ご希望の方は、お手数をおかけしますが、当方にご一報下さい。また、梵文阿弥陀経については、長久寺様HP「山寺」に、詳しい対訳・語義解説が掲載されています。興味のある方はご覧下さい。


2003/9/15 寒い夏だと思っていたら、9月に入って厳しい暑さが続きました。
日中は軽く30度を超し、夜も最低気温が25度以上の熱帯夜の日がしばらく続き、夏の疲れが出てくる頃ですね。もっとも、今朝は最低気温も下がり、今日も晴天で暑いとはいえ、秋の趣が感じられます。

一週間ほど前、9月9日に、岐阜県の飛騨白川から富山県の五箇山方面へ向けて、組内(そない)のお寺さん、総代さん方と研修旅行に行ってまいりました(ちなみに「組(そ)」というのは、西本願寺派教団の一つの地域・教化単位です。全国に広がる教団は 地方ごとの「教区」に区分けされ、教区はさらに「組」と呼ばれる、より細かな単位に区分けされます。拙寺は岐阜教区の華陽組(かようそ)に属します)。世界遺産にも登録されている合掌造りの集落を、まだ一度も見に行ったこともないし、飛騨の一足早い秋を見に行きたいと思い、バスに乗り込んだのですが、いざ白川郷に着いてみると、暑い暑い。刺すような夏の陽ざしの下、汗をかきながら合掌造りの集落を見て回りました。

それからさらに山間の道を進み、富山県の五箇山にある、行徳寺というお寺に向かいました。同寺は蓮如上人の直弟子、赤尾道宗さんが開基されたお寺で、蓮如上人ゆかりの文物も多数伝えられていましたが、なかでも印象に残ったのが、蓮如上人のお袈裟と念珠でした。それらからは、とても500数年の時を経たとは思えないような生々しい存在感が放たれているように、私には感じられました。きちんとたたまれたお袈裟と、その上に載った黒光りする二連の念珠を見ていると、蓮如さんという一個の生身を持った人物がこの世に実在されたことを強烈に感じずにはおれません。これらの<もの>が放つ存在感と、その<もの>を身につけられ蓮如上人と、そして500数年にわたる法の流れとに感心しながら、この山間の厳かなお寺を後にした次第です。


2003/8/17 どうにかお盆が終わり、夏も半ば以上を過ぎた気がいたします。とはいえ、
今年は、7月終わりから8月の始めにかけて少し夏らしい日があったほかは、なんだか毎日雨を気にしながら夏の盛りを過ごしてしまったようにな感じがします。例年ならば、お盆を過ぎた頃には夏の疲れが出てきて、気力体力ともにへばってくるのですが、今年は厳しい季節を過ごしたという感慨がなく、なんだかおさまりがよくありません。身体が楽なのはありがたいのですが、それにしてもこの冷夏は少し度が過ぎているようです。

お盆の最中、たしか14日頃に、ざあざあ降りの雨の中でセミがやかましいほどに鳴いていたのに気が付いて、奇妙に感じました。こんな夏は記憶にないなあ、と思いました。本来のセミの鳴き方といえば、暑さが続く夏のほんの合間に雨が降ると、とたんにそれまでうるさかったセミの鳴き声が止み、雨が止むとまた一声にセミが鳴き出して、暑さがぶり返す…というものだったように思うのですが、雨続きの夏を過ごしていると、その記憶さえも不確かに思えてきます。

セミといえば、私が子供の頃に家の辺りで見かけるのは、アブラゼミとニイニイゼミがほとんどで、それと夏の終わりになるとツクツクボウシの鳴き声が聞こえてきたものでした。それが30数年を経た現在、ニイニイゼミはまったくみられなくなり、代わりに、近年はクマゼミが多くなってきました。今年などは、見た目はアブラゼミが目に付くものの、泣き声ではクマゼミがアブラゼミを制しているほどでした。調べてみると、少し古いですが、環境庁(現環境省)がまとめた'95年時点でのセミの抜け殻調査によれば、たしかにクマゼミは北に分布を広げているようです。

ともあれ、明後日あたりからは、暑い夏になりそうですね。どなた様もお身体をご自愛の上、残りの夏を楽しんでください。


2003/7/27 長らく梅雨の曇り空が続いていましたが、昨日・今日と、
一転して青空に恵まれました。誰もが梅雨が明けたことを納得できるような、そんな完璧な梅雨明けでしたね。さいわい、今日も岐阜の最高気温は30.2度と例年を下回り、また湿度も低いので、すがすがしさを感じる気持ちのいい夏の日です。少し暑くても、こんな毎日がつづくといいですね。

 いささか専門的な話で恐縮ですが、グレゴリー・ショーペンというアメリカの仏教研究者のを、ぽつり、ぽつりと、読んでいました。インドの仏教遺跡や仏像などに刻まれた碑文や律蔵を主な資料として、インド仏教の姿を新しい角度から照らし出すもので、経典や論書を読む限りでは知り得ないような様々な事が書かれていて、驚きをもって読ませていただきました。
 インドの仏教教団、といっても、お釈迦さまの時代(紀元前4、5世紀)から紀元13世紀まで、1700〜1800年の歴史があるなか、この本では、碑文資料が残っている紀元前2世紀頃から、紀元4、5世紀までが中心的に扱われていて、大体この時代のインド仏教教団に生きた出家者や在家者の宗教生活や信仰の内容が描き出されています。

 たとえば、律蔵には、比丘・比丘尼(つまり男女の出家のお坊さん)が、在家信者の人生の通過儀礼(冠婚葬祭)のために在家者の家に出向いていたことが記されているということです。つまり、在家信者の家に赤ちゃんが生まれた時、家が新築される時、息子や娘の結婚式の時、あるいは在家信者が重い病気にある時(これは明示的には説かれていないものの、葬儀を執行することも含意されているようです)、出家の比丘・比丘尼は僧院から信者の家に出向くことが務めであった、とされます。あるいは、同僚の比丘・比丘尼が亡くなった時、僧院内で葬儀を行うことも彼らによってなされていたことが知られるようです。
 初期インドにおける仏教の比丘・比丘尼といえば、もっぱら学問とめい想とに明け暮れ、世俗の冠婚葬祭にはほとんど立ち会わないか、あるいは全然立ち会わなかったというようなことが従来しばしば言われてきたけれども、律文献の記述をよく見れば、出家者たちの実情はそうではなく、むしろそれらに関与することは義務ですらあったというのが、著者の説かれるところです。このほか、出家者は、布薩(ふさつ)と呼ばれる僧院で行われる月例の定期集会において、在家信者に対して説法をしていたことは、これまでにも知られていることです。

 また、お釈迦様が亡くなられてから、その遺骨は分配されて、インド各地に仏塔(ストゥーパ)が建立されましたが、その仏塔は単なる遺骨の安置場所としてではなく、現に今まします仏陀として出家者にも在家者にも扱われ、信仰されたようです。さらに、紀元後に仏陀の姿を仏像として造築することがなされるようになると、こんどは仏塔に代わって仏像が、各僧院の中にそれぞれに現在する仏陀として、花や香や灯火をもって供養され、崇拝されたようです。興味深いことに、舎衛城(シュラーヴァスティー)にある9-10世紀のものとされる小さな仏塔には、人の遺骨ではなく、古くて壊れた仏像が奉納されていたとのことです。つまり、お釈迦様が亡くなられた時にその遺骨が仏塔に奉納されたように、「死んだ」仏像についても、同様に仏塔が建立され、その中に「遺骸」が安置されたと考えられるいうのです。

 仏陀とは何か、その本質は何なのか、ということは、特に大乗仏教において思惟が深められてゆきました。お釈迦さまは、確かに、いろ・かたちある身体を持った人間としてこの世においてさとりを開かれた仏陀である。けれども、仏陀の本質ということを問うならば、それはお釈迦さまの肉体そのものであるわけではなく、お釈迦さまの説かれた真理(法)こそが仏陀を仏陀ならしめるものとして、より本質的なものである、と考えられるようになります。前者の、お釈迦さまのように肉体を持ってさとられた仏陀のありかたを色身(しきしん)と言うのに対して、後者の、真理(法)そのものからなる(したがっていろ・かたちを超えた)仏の本質そのものを法身(ほっしん)と言います。色身・法身の二身説は、さらに報身(ほうじん:受用身ともいいます)を加えて三身説へと展開してゆくことになります。

 しかし、このような仏陀の本質論を深めていった仏弟子たちの生活の場において、同時に、上記のような仏塔ないし仏像への信仰が息づいていたということは、見落としてはならないことと思われます。インドの仏教徒たちが、自分達の僧院にある仏塔や仏像を現にまします仏陀として信仰していたあり方が実際にどういうものであったかはよくわかりませんが、ともかく、このような仏塔・仏像への崇拝と、二身説・三身説へと深まってゆく仏陀に関する高度な思弁とが併存したところにこそ、彼らが抱いた仏陀への思いは忠実に描かれるというべきなのでしょう。

 さらに、この本には、4、5世紀以前のインド仏教教団において、女性出家者(比丘尼)が男性出家者(比丘)と同等に活躍していたこと、精神的にも指導的な役割を果たした比丘尼達がいたことが碑文資料などから明らかにされていて、これも興味深く思われました。

 非常におおざっぱな言い方ですが、インドの仏教徒達も、仏陀への信仰と人間の世俗生活に深く関与しながら、同時に、その宗教生活の中から甚深広大な思弁を生み出されていったことを知って、すこし胸が熱くなるような思いがした今日この頃です。


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