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付け足し: アバターとアヴァターラの距離(2004/3/13)

2002/11/3 ぶるぶる、
ここ十日程で、一気に寒くなってしまいました。寒い晩などは、もうストーブがほしくなります。油断してたら、ノドがかれ、鼻水が出てくるようになって、それがなかなか直りません。これからの季節、風邪にはお気をつけ下さい。

 前回の雑記帳に続く、黒崎さんの本の読後感想ですが、こちらのコーナーに書かせていただきました。しばらく更新していなかったので……^^); 


2002/10/22 秋だからというわけでもないのですが、
黒崎政男著『デジタルを哲学する』(PHP新書)という本を読みました。この手の本のタイトルに弱いからだけでなく、以前、朝日新聞夕刊の文化欄にこの方の写真論が掲載されていて、それがおもしろかったからでもあります。同書には、その写真論も再掲載されていました。

 黒崎さんによれば、90年代に加速度的に起こった根本的出来事は、文字、音、写真、動画などこれまでさまざまな物質的差異によって成立してきた情報が、1と0とのデジタル情報に還元された、ということだとされます。それらの情報は、すべてコンピュータで一元的に扱えるものとなり、たとえばカメラとフィルムによって確固として形成されてきた写真世界も、このデジタル化のなかでは、情報の単なる一形態として埋没し始めている、というのです。

「特に<写真>がその確固とした存在感を失いかけて見えるのは、それが<静止画>、つまり動く映像である動画の単なる部分、単なる一コマとして扱われ始めているからである。デジタル・テクノロジーは、動画に関しても飛躍的な進歩を遂げ、映像を、一定のスピードで切り替わる静止画の集まり、と捉えるようになった。つまり、ある出来事を動画であらかじめ撮影しておけば、あらゆる瞬間は、そこからのちに、いつでも取り出せる静止画という形に退落してしまう可能性がある。……つまり、今日<写真>にとって最も深刻な問題は、デジタルカメラと従来の写真との対立問題ではなく、写真は、デジタル動画映像に飲み込まれるか否か、という問題だと思われる。……コンピュータに保存される動画映像では、あらゆる時間の断片が、いわば等質で蓄えられるために、逆に決定的瞬間は消滅してしまう。すべての瞬間はその前後との退屈な連続性のうちに没してしまうからである。」

 写真には独自の根源的特質があり、それは<決定的瞬間>を表現するものであること、つまり、「とめどなく流れ去ってしまう<時間>をある瞬間で定着させ、まさにその一瞬が、時間の流れ全体を、あるいは、その事件や状況の本質をみごとに表現するようなメディアとして存在してきた」けれども、デジタル・テクノロジーは、その写真独自の存在意義を剥奪する形で進行してゆくだろう、と黒崎さんは指摘しておられるのです。

 まったく、頭のいい人の文章を読むと、こちらもものがわかったような錯覚をしてしまいますね。
 デジカメを使うようになってからというもの、その便利さと手軽さから、いまでは従来の銀塩写真を撮ることはめったになくなってしまいました。プリンタの進歩も驚異的ですね。本当に「写真画質」の写真を家にいながら手軽にプリントアウトすることが出来るような時代になりました。同時に、ビデオカメラを持たぬ者にとって、デジカメの便利なところは動画も記録できるところで、サンヨーの動画デジカメなるものを使っていると、スティルカメラとビデオカメラとの境界線がやがてはなくなってゆくことを予感せずにはおられませんでした。ところがそのデジカメの動画機能の進む方向こそ、写真固有の存在意義をあやうくさせるものであるとは。たしかに、銀塩カメラをデジタルカメラに持ち替えて写真を撮るかぎりは、写真がより手軽に身近に扱えるようになった感じはしますが、上のような写真の特質は何ら変っていないように思われます。しかしデジカメに附加された動画機能、さらには、むしろ動画撮影のほうがメインで静止画も撮れるようなデジタルビデオカメラが進化してくるようになると、写真とは、動画よりも劣った、不完全な、古めかしいメディアのように認識されるようになるかも知れません。いや、実際、いまでも、写真に対してたまにそのような思いをする時があります。将来的には、黒崎さんの指摘されるように、ある種の映像を記録する場合には、ただ一瞬の止まった絵しか記録できない写真ではなくて、音も動きもとれる動画映像を主に使って、静止画がほしいときにはその動画から一カットを抜き出してプリントアウトする、という手法がより一般的になることも考えられますね。なるほどなあ。
 同書の読後感想についてはもう少し続けたいと思うのですが、ここでひとくぎりします。


2002/8/25 8月も残すところあと一週間となりました。
 
いつ果てるとも知れないように思われた連日の熱帯夜も、お盆が過ぎた頃、台風が太平洋上を本州沿いに北上して、その吹き返しで大陸の冷気が日本に入り込んだことによって一段落し、それから数日は、うそのように過ごしやすい日が続きました。もっとも今日あたりからまた残暑がきびしくなってきましたが、それにしても夏の終わりを感じます。いつのまにか昼にはツクツクボウシが、夜には虫の音が聞こえるようになりました。

 ・毎年、夏の終わりの今頃になると、毎日ひそかに楽しみにしていること−といってもたいしたことではないのですが−があります。それは、新聞の天気図を見たり、テレビの気象情報を見ることです。さらに近年は気象関係のホームページを見ることも加わりましたが、要するに毎日の天気の移り変わりを見るのが私なりのこれからの季節の楽しみ方の一つです。他の季節でも毎日の気象情報を気にすることはありますが、しかしこの夏から秋にかけての季節は特別です。南の太平洋からの暑い夏の高気圧と、北からの大陸性の高気圧とが日本上空で牽制しあい、しだいに前者が勢いをゆるめて、後者が日本に張り出すようになってゆく...そんな気象の変化を天気図などで見、同時に肌でも感じられることを、特にこの季節は楽しく思うのですが、皆さんはいかがでしょうか。

 ・「他力本願」、という言葉は、浄土真宗にとってはきわめて重要なものであるにもかかわらず、世間一般には、むしろひどく誤解された意味で流布されてしまっています。すでに多くの方もご存知のことかと思いますが、ある企業の広告で他力本願という語が、その本来の意味もかえりみられることなく使われていたということがありました。そんなこともあって、『他力本願ってなあに?』という一般向けのリーフレットが本山で作られ、本願寺ホームページのこのページからも読むことが出来るようになっています。ぜひ一度ご覧になって下さい。


2002/7/27 まだ7月というのに、猛暑が続いていますが、
皆さんはいかがお過ごしのことでしょうか。昼間の暑さもこたえますが、ここ一週間ほどは最低気温が25度を超す熱帯夜で、睡眠も不足がちになります。夏はまだこれから。体調に気をつけて、健康に夏を乗り切りたいものですね。

 浄土真宗において最も依りどころとすべき経典といえば、ともあれ無量寿経ですが、その初めのあたりに、このような文章が出てきます。阿難(アーナンダ)という仏弟子の一人が、お釈迦さまに向かってこう言うのです。

今日世尊、諸根悦予、姿色清浄、光顔巍巍、如明浄鏡影暢表裏。

同経に対する現代語訳(浄土真宗聖典編纂委員会編、本願寺出版社刊)によれば、この部分は次のように訳されています。

世尊せそん、今日は喜びに満ちあふれ、お姿も清らかで、そして輝かしいお顔がひときわ気高く見受けられます。まるでくもりのない鏡に映る姿が透きとおっているかのようでございます。

平たく言えば、「先生、今日の先生は心身ともにとてもすばらしく調子がよいようですね」、というようなことでしょうか。経典の説くところによれば、この阿難の言葉をきっかけに、お釈迦さまはおもむろに法を説かれ出します。すなわち、生きとし生けるものをすくい取りたいとの阿弥陀仏の大きな願いが、無量寿経の以下の部分にお釈迦さまによって説かれることになります。

 さて、この経の文句について、以前は別段に気にとめることもなくいたのですが、いつのころからか、そうだよなあその通りだよなあ、などと急に親しみを覚えるようになっていました。おそらくそれは、自分も中年のおっさんの仲間に入るようになって、体調の良い日悪い日が自分に十分に自覚されるようになってからのことではないかと思います。自分の体調についてさほど気にする必要もなかった頃は思いも及ばなかったのですが、なるほど体調の善し悪しは気力に影響を及ぼします。調子の悪いときには、人に話をすることもついおっくうになってしまいがちです。そんなことが自覚されるようになって上の経文を見たとき、なるほどなあ、お釈迦さまでも人間として調子の良いときも悪いときもあったのだろうなあ、などと、わが身に近づけて勝手に味わうようになったというわけです。また、弟子の阿難にしてみれば、自分の師がとても心身ともに充実しているらしいのを見て、これからすばらしい法を説いていただけることをうれしく思って言葉を発したというのもよくわかるような気がします。

 インドに生まれた仏典には、しばしばとてつもなく大きなスケールの事柄が説いてあります。「恒河砂数諸仏(ガンジス河の砂の数ほど〔に無数の〕諸仏)」だの、「三千大千世界(10億の太陽系の集合体、いわば銀河系)」などといった表現が出てくると、そのスケールの大きさに感心したり魅力を感じたりする一方で、なんだか途方もなくて、自分の小さな尺度ではとうてい捉えようがないものに出合ったような思いがするのも、また事実です。そんな表現が至る所に説かれている仏典のなかにあって、上の無量寿経の経文は、法が生身の人間を通して説かれることを表現しているようで、とても親しみを感じた次第です。

 実際、お釈迦さまも、あっついインドに住んではって、さぞかし大変だったろうなあなどと思いつつ、やはりそれなりに暑い日本の夏に無量寿経を読むこの頃であります。

(以前、雑記帳で取り上げた画像表示ソフトですが、その後ViXに乗り換えました。画像表示スピードの改善などの修正がこまめになされていて、ぐっと使いやすくなっていました。)


2002/4/30 ゴールデンウィークも谷間に入りましたが、
いかがお過ごしのことでしょうか。僧侶にとって、土日休日は普段の月参り(この地方では定飯じょうはんといいます)に加えて法事をこなさなければならず、世間の連休はいつもより忙しい連働の日々となります。世間の休みがお寺の休みでもあるのは、元旦ぐらい…でしょうか (^^;。少し前のこと、小泉首相が経費をかけない景気対策として秋にもゴールデンウィークのような大型連休を作ったらいい、などと言われたときには、思わず、ヤメテクレー、と叫んでしまいました。その後この話がどうなったかは知りませんが。
 ともかく、ゴールデンウィーク中も休日返上で頑張っておられる方、ご苦労様です。いずれまた休息をとりたいものですね。

 ・4月の半ば頃、期間にして1週間半ぐらい、ホームページの更新が思うようにできない不調に悩まされました。こちらは更新したはずのトップページが、インターネットを経由してブラウザーで見るとなかなか更新されていない。あるいは無量寿経のサンスクリットテキストがなぜか途中で途切れてしまっていて、完全なテキストをアップロードしてもやはりそれが反映されないといった症状で、しばらく隔靴掻痒の思いをしました。結局、サーバー側の不調がどういったものであったのかは当方にはわからずじまいでしたが、しかし今はなんとか復調した模様です。ホームページという物を、いわば自分のノートのようにいつでも書き足したり消して修正できると思っていたところが、とつぜんにそのノートが反乱して自分の言うことを聞かなくなってしまったような、そんな感じがしたといえばいいのでしょうか。パソコンにせよ、ホームページにせよ、言うことを聞いてくれているうちは便利だけど、いったん調子が悪くなるとなんとも手に負えないというのは、なんともやっかいで、なんとかしてほしいものですね。

 ・リンクのコーナーでもご紹介している湖巌美術館ですが、このまえ立ち寄ったところ、さらに洗練されて見応えのあるホームページとなっていました。以前、同じようにセンスの良い美術館のホームページとして感心したものに、アムステルダムのRijks museumがありましたが、湖巌美術館はこれを越えてしまっているように思われます。折しもゴールデンウィーク中であちこちのウェブサイトが休止しているとき、これらの美術館サイトはおススメですョ。


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