無盡燈−浄土真宗本願寺派善徳寺

聞きゆく生き方

 黒崎政男という方の書かれた『デジタルを哲学する−時代のテンポに翻弄される<私>−』(PHP新書220、2002年刊)は、デジタル・テクノロジーが急激に発展した今という時代を哲学者の目でわかりやすく整理するもので、おもしろく読ませていただきました。写真、インターネット、著作権、臓器移植、ロボットなど、さまざまな視点から今という時代が考察されていて、ただ時代の波に流されている者に、しばし立ち止まって冷静に時代を見つめる眼を持たせてくれるような、そんな好著だと思いました。

 その中で、黒崎さんは、今日<情報>と呼ばれているものが、おおよそ二種類に区別されうることを説いておられます。それは、時間の経過によって、その<価値>が、
  (A)極端に減少する情報と、
  (B)あまり変化しない情報
との二種類とされます。(A)は、たとえば、天気予報や地震直後の津波情報などで、ある時点においては、きわめて価値の高い切実な情報であるけれども、時間がたったら、特殊な研究の対象として以外は、なんら価値を持たない情報として忘れ去れるものとされます。これに対して(B)は、文学や思想などのテキスト、古典的絵画、写真、演奏などで、これらは時間がたっても極端に価値が変化することはないもの、とされます(後述する、詩やお寺の本堂などでの布教(お説教)などもこれに入るものと思われます)。
 このような区別は、かつては「情報」と「知識」の区別として明確に意識されていたけれども、ラジオやテレビの出現から始まる二十世紀の<情報化>は、むしろこの区別を廃棄する形で進行してきた。今日の情報化は、情報(A)への一元論化への進行として展開していると、氏は言われます。

端的に言えば、時間を要する熟練、沈思黙考などという文化を支えてきた思考形態は、(広義の)電子メディア時代においては、軽んじられ、すべてはスピーディーに、かつ誰にでも分かるものに書き換えられ、置き換えられていく。一度聞いただけで理解できない内容は、無視、排除される。

 しかし、早わかり方式で仕入れた情報は、

私になんの痕跡も残さず、あっという間に消え去ってしまう。……情報の速度こそが絶対の価値となっている現代においては、<私>は成熟していく存在であるよりは、瞬間的な反応マシン、つまり、情報が入り込んでは流れ出ていく一結節点にすぎない存在になっていくように感じられる。

 黒崎さんによれば、(A)のような情報を追い求め、それに身をゆだねることは、「<私>を徹底的にやせ細った刹那的存在にしてしまうこと」である。これに対し、(B)のような情報は、熟考、熟練の要するもの、時間がかかるものであるが、じつはそういった「自分との対話をじっくりと重ねながら学び味わったものは、いわば<体得>したものとして」私に染み付く。いまの時代こそ、むしろ一度聞いただけで理解できないような(B)のような情報を、自ら求めることが必要であるとされるのです。

現代の情報、消費、社会システム全体が、便利さと速さを<豊かさ>と称して邁進せざるをえない以上、<私>は常に情報反応マシン、消費マシンに変形されつつある。だとすれば、時熟や成熟の契機は、外から与えられることを求めるのではなく、<私>自身の内側に自覚的に求めていくほかはないのかもしれない。

 かくして、黒崎さんは、哲学者として、現代において哲学することの意義を説かれることになります。

◆◆

 たしかに今の私たちは、自分自身のことを、テレビ・ラジオ・インターネット・新聞・雑誌などから流れる情報を追い求め消費するだけの「やせ細った情報反応マシン、消費マシン」だと自覚することが多々あります。一時期さかんにテレビなどから流れていた話題も日時が経つとほとんど忘れてしまって、新たに起こった事件のニュースを追い求めている自分に気がつくようなとき、なんとも虚しい思いがします。
 だからこそ、黒崎さんが(B)のような情報を求めることの意義を説いておられることは、なるほどと感じられます。理解したり身に付くには時間がかかるけれども、私を成熟させるさせてくれるような情報こそが大切であるというのは、それはその通りだろうと思われます。
 けれども、もう一方で、私はこんな思いもせずにはおられません−−いったい、日常をあくせくこなすだけの自分に、どれだけの<時熟>を期待することができるだろうか。私は、たとえば一年前、あるいは五年前とくらべて、どれほど本当に<成熟>したといえるのだろうか、と。

◆◆◆

 黒崎さんの本を読んでいた、ちょうど同じ頃、梶山雄一という著名な仏教学者の『「さとり」と「廻向」−大乗仏教の成立』(講談社現代新書711、1983年刊;増補改訂版、人文書院、1997年刊)という本を読み返していました。阿弥陀仏による一切衆生の救済を説く浄土教の教えが、大乗仏教思想の基礎となっている「空の思想」と緊密に関連していることを一般向けに説いた本なのですが、その序に、こんなことが書いてありました。

 人間には、一度聞いたり読んだりしただけなのに、一生のあいだ、ふとした折によみがえってくる言葉というものがある。そういう言葉をいくつか聞いて、一生、それを反芻はんすうしながら死んでゆくひとの人生こそが、いちばん豊かなものなのだろう、とこのごろ思う。……「何か言い得」なくてもよい、とわたくしは思う。「何か聞き得て」逝けるならば、それでよい、とわたくしは思うのである。
 大木惇夫はあの詩を詠んだときに何を感じていたのだろうか、それはわたくしにはわからない。けれども、わたくしの人生は、この詩の意味を実感するために、ただそのためだけに尽くされた、といってよい。

 いったい私の中にどれほどの成熟を期待することができるだろうか、ということを思うとき、「何か聞き得て逝けるならばそれでよい」という、この言葉は救いとなります。「言い得る」とは、先の黒崎さんの言葉でいえば、<時熟>による知を自ら熟成させて、自分の言葉をこの世に残すことであろうかと思われます。しかし私たちは何かを言い得なくても、本当に大切なことを聞き得るならばそれでよい。こう言われていることを、私はありがたく感じるのです。
 ちなみに、ここに言及された大木惇夫の詩というのは、こういうものです。

災いと幸とはかりて
差し引きは無しと答えむ
無しこそはいとも明るき
大慈悲のはじめに通え

 おそらく、梶山先生は、この詩のうちに、空と慈悲という仏教の思想を感じられたのでしょう。そして、この空と慈悲のはたらきとしての阿弥陀仏が、著者の底辺であるとも、書かれてあります。

 人はだれでも、なにかのために死んでゆく。女のために、金のために、名誉のために、仕事のために、国のために、主義のために、死んでゆく。それはそれでよい。しかし、肝心なことは、そのために人が死んでゆく三角形の頂点ではなくて、死んでゆく自分を不死にするもの、三角形の底辺がその人にあるかないかである。
 久松真一は、晩年、家人たちにいった。
「わたしはぜったいに死にません。」
「家の者は、わたしのいうことがわからなくて、少しおかしいと思うらしい」と、氏はたまたま訪ねたわたくしにほほえみながらいった。
 わたくしの底辺は、空と慈悲の阿弥陀仏である。

◆◆◆◆

 私たちは、現代の情報化社会の中にあって、いつも「情報反応マシン、消費マシン」として刹那的存在として生きることを強いられています。そのような社会を毎日くらすだけでも精一杯だと感じればこそ、なおさら、何かを聞きおおせたと言えるような、そんな言葉を聞きたいと願わざるをえません。そして、そのような価値ある言葉とは、おそらくここに言われているように、いつも自分の底辺として自分を支えるもの、「死んでゆく自分を不死にするもの」につながる言葉なのではないかと思われます。

 たしか糸井重里さんが、「このごろはさっぱり音楽を聴かないのだけれども、自分にはむかし聴いた音楽というものが身体に染み付いている。だから、とくに音楽を聴かなても、自分はいつも音楽と共にいる」というようなことを書いておられて、共感したことがあります。同時に、私はこの文章を読んで、お念仏ということを連想しました。子供の頃から耳に入ってきたお念仏、あるいは本堂で法を聴聞をして、「ああ、そうであった」と聞き得たときに口に出た南無阿弥陀仏、等々。そういうお念仏に育てられることによって、人は、たとえ口にお念仏が出てこないときでも、なにかしらいつもお念仏と共にあるような、そんな感じを持って毎日をくらすことができるのではないでしょうか。外からはわからないけれども、そのような人の内には、嬉しいときも悲しいときも、つねにお念仏が響いている。阿弥陀仏のはたらきが、いつも私を底辺から支えていると感じられるのではないでしょうか。

 二書を読みながら、現代社会において法を聴くことの意味について、すこし感じたことを書かせていただいた次第です。

「本願力にあいぬれば
むなしくすぐるひとぞなき」(親鸞聖人『高僧和讃』より)

(2002/11/3)

 


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