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・お釈迦さまが子を亡くした母親に出会ったとき 最近の日本の事件の中でも印象深いものの一つに、重病の患者をその家族が入院先の病院から連れだし、グル(guru,インド語で尊師の意味)と称する人の元で治療を続けていたというものがありました。驚くべきことは、一般に見るところでは明らかにその患者は亡くなっており、既にその身体はミイラ化しているにも関わらず、グルの周辺では患者はいまなお生存中で、回復に向かいつつあると信じられていたことでした。 この事件を私たちの常識では理解できないことと、一蹴することはたやすいことかもしれません。しかしこの患者のご家族の行動は、その立場になってみれば理解できないことではありません。今の日本で科学的医療に見放されたとき、患者とその肉親は救いようのない闇に捨て置かれた思いがするはずですし、まさにわらにもすがりたい思いが起こるのは至極当然のことではないでしょうか。しかし残念でならないのは、このような事件に巻き込まれることによって、残された家族の方々が、肉親の死という事実をまともに受け入れる機会を失ってしまったことです。肉親の死をとおして、私というものがいかに有り難い生命を与えられている存在であるかを知る大切な機会を逸してしまわれたことをおそれます。 インドで釈尊(お釈迦様)がなくなられてからおよそ2400-2500年。その間の、特に科学の発展は本当にすばらしいもので、ついに人は月面に立つこともできるようになりました。しかしそれに比べて人の心の闇はいまだ晴れることなく、むしろ暗闇は深まるばかりのように思われます。短い人の一生において個人個人が到達できる心の深まりは、2400-2500年前も今もさして変わりがないのかもしれません。 2400-2500年前のインドで あるとき、幼い男の子を亡くしたばかりのキサー・ゴータミーという名の女性が、遺体を抱えたまま、「子供に薬を下さい、薬を下さい」 と、狂乱したように町中を歩き回っておりました。ゴータミーは、たまたま舎衛国に来ておられた尊者の噂を聞きつけたのでしょうか、釈尊のもとに行き、同じように薬を求めました。さて、釈尊はどのように応対されたと思いますか。 今の日本でいえば死者を出したことのない新しい家に実の生る木が植わっていることもあり得るかもしれませんが、昔のインド社会では家に実の生るケシの木が植わっているような家は比較的裕福で数世代の歴史を持っていたのでしょう。それはともかく、ゴータミーは釈尊の指示に従って家々を回りつつ、あちこちで「うちも去年親を亡くしたんですよ」とか、「私もついこの間子供を亡くしたばかりで、お気持ちはよくわかります」などという話を聞いたに違いありません。こういった話を聞きながらゴータミーは次第に心の平静さを取り戻し、自分の命と思っていた子供の死を受け入れていったことでしょう。ゴータミーにとってケシ粒さがしは、自分探しでもあったはずです。子供の死はもうとりかえしのつかないことだ、しかし子を亡くしてもなお生きている私はここにいる、と。こうして釈尊のことばの本意を知ったゴータミーはあらためて釈尊のもとに行き、そこで釈尊は初めて法を説かれたのでしょう。ゴータミーは最愛の子供を亡くしたことを縁に、仏法に出会い、よろこびを持って自分の人生を生き直すことができたのです。 この話を聞いて、いかにお釈迦さんといえども死者を生き返らせることはできなかったのかと、思われるかもしれません。しかしかりに釈尊が死者を生き返らせることができたとしても、2400-2500年後に生きる私たちには、何の意味もないことです。むしろ、釈尊がゴータミーに示されたことは時代を超えたものであるからこそ、現代の私たちにも意味があるのではないでしょうか。 仏教は決して死者を生き返らせる奇跡を説くものではなく、むしろ諸行無常(作られたものはすべて無常である)という厳然たる事実を説くものです。しかし同時に、この事実のうえに、なお生死を越える道を説くのが釈尊の示された法です。 『歎異抄』の中には、「ちょっとした病気でもすると、もしや死ぬではなかろうかと心細く思」いつつも、「まことになごりはつきませんが、娑婆にあるべき縁が尽きて、どうにもならなくてこの世を終わるときに、かの浄土へ参ればいいのだ」という意味の親鸞聖人の言葉が残されています。 2000年2月23日
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