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・「門徒もの知らず」ということ もう何年も前の、愛知県にお住まいのご門徒の葬儀に行ったときのことです。葬儀式も火葬も済んで、火葬場から葬儀場となったご自宅へと帰ることになりました、私はあるご門徒と一緒にタクシーに乗りこみました。 浄土真宗本願寺派のご門徒の方であればよくご存じのことと思いますが、同派では浄土真宗の教義として最小限知っておいていただきたいことを、「浄土真宗の教章」として要約して示しています。その中、浄土真宗の「宗風」には、「深く因果の道理をわきまえて、現世祈祷やまじないを行わず、占いなどの迷信にたよらない」と書かれてあります。「因果の道理」とは言い換えると「縁起」の道理ということになります。私や世界その他あらゆる「もの・こと」が、なにを原因として、どんな条件に「縁って起こっている」、存在しているのかを明らかに知るならば、火葬場への往復の道が同じであることが「縁起が悪い」などとする迷信に惑わされる必要はない、ということになります(これでおわかりのように、いまの日本語で俗に「縁起が悪い」などというのは、仏教本来の「縁起」の考え方とはまったく異なるものといわねばなりません)。 ところでこのような浄土真宗の宗風は、近代になって時代に合うようにと、説かれたわけではありません。浄土真宗のこのような世間の迷信や俗習にまどわされない宗風は、ずっと以前から、「門徒もの知らず」という言葉で知られていました。つまり真宗門徒は大安・仏滅といった日柄の善し悪しや方角、家相、その他もろもろの世間の「常識」をよく知らないのだと、真宗門徒を嘲笑する言葉として使われていたのが「門徒もの知らず(真宗門徒はものを知らない)」という言葉だったのです。しかし真宗門徒の側からすれば、「門徒もの知らず」の言葉は、そういった迷信や俗習にまどわされたり不安になる必要のない真宗の安心のあり方を示すものとして、むしろほこりとすべきものと受け取られていたのではないでしょうか。 『歎異抄』第七条にも、
ということが言われています。せっかく浄土真宗のみ教えの流れに預かりながら、バチやタタリの災いが自分に降りかからないようにと気にすることが「信心深い」というのであっては残念でなりません。そのようなものに心をまどわされない「門徒もの知らず」の強さに、いまあらためて目を向けて頂きたいと思うのです。 2000.5.25
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