無盡燈−浄土真宗本願寺派善徳寺

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・「門徒もの知らず」ということ 

  もう何年も前の、愛知県にお住まいのご門徒の葬儀に行ったときのことです。葬儀式も火葬も済んで、火葬場から葬儀場となったご自宅へと帰ることになりました、私はあるご門徒と一緒にタクシーに乗りこみました。
 ほどなくして、タクシーの運転手さんがこんなことを言われました。
 「行きの道と別の道を走った方がいいですか」
 そんなことを聞かれるのは初めてだったので、一瞬なんのことかと思ったのですが、どうやら、家から火葬場へ行くときの道と火葬場から家へ帰るときの道とは、同じ道であっては「縁起が悪い」ということがあるらしいのです。タクシーの運転手さんも、道をよく知っているだけでは勤まらないのですね。
 「いいや、同じ道でええよ。真宗ではそういうことは気にせんでもいいんや」
即座に同席のご門徒さんがいつものように快活に応答されました。よけいな遠回りをするよりも早く目的地に着いた方がいいでしょう、といったこともおっしゃられたかもしれません。それは、真宗の僧侶である私が同席しているのを気づかってというのではなく、ごく自然に躊躇なくそうおっしゃられたのです。つまり、真宗の教えによればこういった迷信は否定されるべきだからといって、それにご自分を無理に合わせているというのではなく、真宗の教えをよく理解した上でご自分の意見としてこう答えられたのでした。葬儀の折の、なにげない会話にすぎませんが、真宗的なあり方をよく示していただけたことを、私はうれしく感じ、また有り難くも思いました。

 浄土真宗本願寺派のご門徒の方であればよくご存じのことと思いますが、同派では浄土真宗の教義として最小限知っておいていただきたいことを、「浄土真宗の教章」として要約して示しています。その中、浄土真宗の「宗風」には、「深く因果の道理をわきまえて、現世祈祷やまじないを行わず、占いなどの迷信にたよらない」と書かれてあります。「因果の道理」とは言い換えると「縁起」の道理ということになります。私や世界その他あらゆる「もの・こと」が、なにを原因として、どんな条件に「縁って起こっている」、存在しているのかを明らかに知るならば、火葬場への往復の道が同じであることが「縁起が悪い」などとする迷信に惑わされる必要はない、ということになります(これでおわかりのように、いまの日本語で俗に「縁起が悪い」などというのは、仏教本来の「縁起」の考え方とはまったく異なるものといわねばなりません)。

 ところでこのような浄土真宗の宗風は、近代になって時代に合うようにと、説かれたわけではありません。浄土真宗のこのような世間の迷信や俗習にまどわされない宗風は、ずっと以前から、「門徒もの知らず」という言葉で知られていました。つまり真宗門徒は大安・仏滅といった日柄の善し悪しや方角、家相、その他もろもろの世間の「常識」をよく知らないのだと、真宗門徒を嘲笑する言葉として使われていたのが「門徒もの知らず(真宗門徒はものを知らない)」という言葉だったのです。しかし真宗門徒の側からすれば、「門徒もの知らず」の言葉は、そういった迷信や俗習にまどわされたり不安になる必要のない真宗の安心のあり方を示すものとして、むしろほこりとすべきものと受け取られていたのではないでしょうか。

 『歎異抄』第七条にも、

 念仏者は無碍の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。

 (阿弥陀仏の本願を信じて念仏する人は、何ものにも碍えられることなく、生と死を超える唯一の大道を往くものです。
 なぜならば、阿弥陀仏のみ名を称えつつ生きる信心の行者に対して、天地の善神たちは尊敬し、信伏していきます。人の心を乱し、さとりのさまたげをなすという悪魔も、仏教以外の宗教も、念仏者の歩みをさまたげ、まどわすことはできません。(梯実円訳))

ということが言われています。せっかく浄土真宗のみ教えの流れに預かりながら、バチやタタリの災いが自分に降りかからないようにと気にすることが「信心深い」というのであっては残念でなりません。そのようなものに心をまどわされない「門徒もの知らず」の強さに、いまあらためて目を向けて頂きたいと思うのです。

2000.5.25

→「門徒もの知らず」の語については、こちらの平凡社『世界大百科事典』のオンラインサービスを利用していただくことによって、この百科事典の解説をただちに見ることができます。検索語は「門徒もの知らず」あるいは「門徒」として下さい。
 「浄土真宗の教章」についてはこちらをご覧下さい。
 また、『歎異抄』については、梯実円『聖典セミナー歎異抄』本願寺出版、1994年刊を利用させていただきました。

 


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