無盡燈−浄土真宗本願寺派善徳寺

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・仏壇にお供えをすること、お下がりをいただくこと

 ある家の法事にうかがったときのことです。そのお家は眷属が多く、お仏壇のまわりには、菓子折や果物などのお供え物が所狭しとそなえてありました。
「いやあ、これはまたにぎやかなことだなあ」
などと思いながら法事を進めさせていただいたのですが、そのいっぱいのお供え物を見ているうち、いろいろなことを考えさせていただきました。

 皆さんのお家もそうかと思われますが、我が家では、何かものをいただくと、お仏壇(お内仏)にお供えをします。子供の頃、これを見ていて奇妙な思いをしたことがあります。たとえば何か食べ物をお供えしたって、お仏壇のなかにおられる仏さんが実際に食べられるわけでもないし、仏さんがおなかを空かすわけでもなかろうに、なぜお供えをするのだろう、と。これは毎朝お供えするお仏飯にしてもそうですね。あるいは、先ほどの法事の場合にしても、なぜお仏壇にお供え物をそなえるのでしょうか。皆さんはこんなことを思われたことはありませんか。

 すこし大きくなって、お仏壇に飾るお花やお仏飯や食べ物などは、お仏壇の中心におられる阿弥陀さま(あるいは両脇におられる親鸞聖人や蓮如上人)へのお供えなのであって、けっして亡くなった祖先がおなかを空かしたり、のどが乾くからというわけでお供えをするわけではないと教えられました。すでに死んでしまった人が飢えるかもしれないなどと心配する必要はないのですね(。だから、浄土真宗のお仏壇には、お水やお茶を供える必要はありません)。しかしそれにしても、です。これらのお供えを、阿弥陀さまが実際に食べられたりするわけではないとすれば、お仏壇にお供え物をそなえるのは、いったい、なんのためなのでしょうか。

仏さまへの敬意の表現として。日々を新たに生きる機会として お仏壇にお花やお仏飯を供える、あるいは法事のさいに仏さまへのお供え物を携えるというのは、作法、つまりきまりごとなんだと受け止めるあり方があると思います。それも、必ずしも誤りではないかもしれません。ただ、作法というのは、まず何かしらの気持ちや考えがあって、それを目に見える形として表わすために生み出された表現手段であると考えられます。作法をただ形ばかりのしきたりととらえるのではなく、そこにある意味を味わうことができるならば、お仏壇にさまざまな供物をそなえるという行為も、より豊かな意味をもつものとなるにちがいありません。

 お仏壇をお飾りし、仏さま(阿弥陀仏)にお供え物をそなえるというのは、ともあれ、仏さまへの感謝と敬いの心を表わす行為であると言うことができるでしょう。阿弥陀さまをお供え物をもって供養し、お念仏申し上げるというのは、私たちをすくい取って極楽に往生させ仏のさとりを開かせたいとの大悲の誓願をたてられた阿弥陀さまに対する報恩感謝の心を表すものです。それは、日々のあわただしい生活のなかで、少しでも仏さまに心を向けるようとの思いを表現することであると言えるように思われます。
 ただしその場合、昔の人々は、いまの私たちよりも、より感謝と誇りの気持ちをもって、お供え物を仏さまに捧げることが出来たのではないかと思います。自分が育てたり獲た物を、自らが調理・加工して仏前にお供えする。そういったあり方においては、お供えをするなかに、それまでの自分の日々のはたらきを振り返り、さまざまな縁に支えられて収穫が獲られたことなどを喜び感謝することが、あるいは誇らしい気持ちを持つことができたにちがいありません。いまの私たちは労働が賃金に換算される社会に住んでおりますから、自分の働いた結果がただちにお供え物になることはなかなかありません。お供え物の多くはお店で買ったものですから、お仏壇にお供え物をそなえることに感謝や誇りの気持ちを持つことをついつい忘れがちです。しかし社会は大きく変わっても、人として得難い命をいただき、阿弥陀仏のみ光のもと、毎日生かされていることに気づかせていただく機会を大切にすべきことに変わりはないはずです。大切な今を生かされていることを喜びつつ、お仏壇にお仏飯やお供え物をそなえ、仏さまに手を合わさせていただき、お念仏申し上げたいものです。

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仏さまからお下がりをいただく、ということ 前置きが長くなってしまいました。実は、私が法事のときに考えさせられたというのは、お供えをするということよりもむしろ、「お供え物をお下がりとしていただく」ということの意味についてだったのです。あの時、お仏壇のまわりに積まれたお供え物を見て、「ああ、これらの供物は法事が終わったら、お下がりとして参詣の方々がもらっていくんだなあ」と、こう思い、そしてその意味に気づかせていただいたのです。

 つまり、私たちは毎朝のお仏飯にせよ、法事の供物にせよ、食べられる物であれば、仏さまにお供えをした後、やがては自分達の口に入れるということをしています。法事の供物に関していえば、いったん仏さまにお供えしたら、それはもはや、どこの誰がいくらで買ってきた物ではなくて、仏さまの物となるのではないかと思います。もちろん、仏さまがこの供物は自分のものだと言われるとは考えられませんが、ともかく、こうして仏前にお供えした物を、私たちは仏さまからの「お下がり」として頂くことになります。法事に参詣した方々はみな、仏さまから「お下がり」をそれぞれのお家に持ち帰り、家族と分け合っていただく。こうして私たちは、法事のおりに、あるいは毎朝のお仏飯の給仕のおりに、仏さまにお供えをしたあとで、仏さまからいつもお下がりを頂いているわけです。私たちは、このような行為を通じて仏さまと交流し、そして生かされていることを教えられているのではないでしょうか。「ああ、きょうはなかなか得られないご縁にあってお参りをし、そしてお下がりをいただいたんだなあ」。
法事のお下がりをいただいた方々は、このように、それぞれの家に帰った後で、味わうことが出来る。ここに大きな意味があるように思われます。

 もちろん、仏さまからいただくお下がりというのは、単に物としてのお下がりばかりではありません。むしろ私たちは、形として見える物をお下がりとしていただきながら、今日のご縁に合わせていただいたことを教えられているものと思われます。広い意味では、今日私が生かされているということも、仏さまからのいただきものであると感じさせていただくことが、大切なのではないでしょうか。

 くりかえし自分の子供の頃のことで恐縮ですが、学校から成績表や卒業証書をもらうと、まずお仏壇にお供えをさせられました。学期末に成績表をもらうと、まずお仏壇にお供えをし、そしてその後は、お察しの通りです。たいがいは成績の悪いことをしかられたものです。しかし成績表を仏壇に供えるというのは、どうか成績がよくなりますようにと仏さまにお願いするためではないことは、親から教えられていたように思います。成績が悪いならば自分が努力するほかはありません。
 いまになって思えば、成績表や卒業証書を仏壇にお供えするというのは、そういったものを学校からもらえるまでに大きくなったこと、生かされてきたことを感謝する意味があったのではないかと思います。成績表や卒業証書は自分の努力で得られたものですが、しかしそれらをもらうことが出来るためには、さまざまなご縁に支えられなければなりません。成績表などについても、仏さまからのお下がりとして受け止めることもできるのではないでしょうか。

 親の身になってみると、子供の成績表は小言や悩みの種にしか見えないかもしれません。しかしお子さんが成績表や卒業証書を頂いて来られたならば、親御さんは、あるいはおじいさんおばあさんは、どうかお子さんお孫さんとご一緒にお仏壇に向かっていただきたいのです。お子さんお孫さんとともにお仏壇の仏さまに成績表や卒業証書をお供えし、手を合わせてお念仏をとなえ、そうして小言を言う前に、こうお子さんに言ってやっていただきたいと思います。「今日は成績表をもらっておめでとう。この大切な区切りの日をあなたも私たちも共に迎えることができて、よかったね」と。

2000年10月26日

 


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