藤田徹文著『私の浄土真宗ー三つの質問に答えるー』法蔵館、1999年(1800円(税別))
いったい浄土真宗とはどんな教えなのか、どこに特徴があるのか、ということをわかりやすく書いたものとして、ぜひおススメしたいのがこの本です。 著者は本願寺派の布教使であり広島県のお寺のご住職でもある方で、本書はそういう浄土真宗の教えを布教する専門家の書かれた浄土真宗入門書というべきものです。ただし専門家の書といっても、その語り口は分かりやすく、また日々の生活に即して仏教・真宗の教えが説かれています。 本書はその副題にあるように、次の三つの質問に答えつつ、浄土真宗の教えを説くものとなっています。
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仏教は先祖供養の教えか
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宗教とは現世利益のためのものか
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浄土真宗は精神修養の教えか
ここでは、特に初めの二つの問いに対する著者の応答の部分を中心にたどりながら、本の内容をすこしご紹介させていただきます。
まず第1の問いについてです。仏教といえばまず思い起こされるのが法事や葬式で、また法事といえば先祖供養のための儀式だというのが、おそらく一般に広く流布している通念であろうと思われます。そしてその「先祖供養」とは、多くの場合、亡くなった方の霊を慰め、生きている者に災いをもたらさぬためのもの、「慰霊・鎮魂」の意味を持つものと受け取られています。しかし著者は、そういった「先祖供養」とは、じつは本当に先祖を大事にしている行為ではなく、むしろ先祖を魔物として扱うものではないかと言われます。本当に先祖を大切にするとは、本当の供養とは、相手を<敬うこと>であり、
おじいちゃんを思い出しながら、「自分の人生、もうすこししっかりせなあかんな」と味わうことが、亡くなった人を大事にすることでしょう。亡き人の「いのち」と人生から、残された私たちの生き方が問われているのです。…仏教本来の供養には、鎮魂や慰霊という意味はまったくないのです。(p.33)
と説かれます。では法事の意味はどこにあるのかといえば、著者は、こんな風に表現されています。
法事は、自分自身の生き方を省みることのない私たちが、このままでよいのか、仏法に出逢って生きている喜びを見出せ、と亡き人に導いてもらうところに意味があるのです。(p.44)
仏教・真宗とは生きている私のためにある教えであり、また法事とは、なくなった身内を敬いつつ、それをご縁に私が法を聞く大切な機会であるわけです。
次に第2の問いについてです。宗教とは現世利益を得るためのものだという通念に対して、著者は、「浄土真宗も現世利益を説きますが、多くの人が思っているような現世利益とはだいぶ意味が違います」と返答しておられます。
一般にいう現世利益とは、自分の願いが叶うこと、欲望が満たされることをさすけれども、「世の中、神仏を祈って手を合わせていたら、災難に遭うこともなく、すっと一生なにごともなく息災延命の人生が生きられるでしょうか。一生涯なにごともない順調な人生を歩む人など、この世に本当は一人もいない」。また著者は、そのような「現世利益」とは、時には他人の死をも願うような人間の欲望を単純に肯定するものにすぎないのではないかと、疑念を呈しておられます。
それでは浄土真宗の現世利益とは何か。親鸞聖人は、その著書『教行信証』の中で、信心(金剛の真心)をいただいた者は、この世で必ず十のご利益を獲ると言われています。十の利益のすべてについては、著者も触れておられませんが、代表となるのが「入正定聚にゅうしょうじょうじゅの益やく」(正しく仏に成ることに定まった仲間に入ること)であり、それは、「どのような人生にぶつかろうと、どのような形でこの『いのち』が終わろうと、私は必ず仏に成らせていただく」という利益であることが特に記されています。その他の利益についても、著者は身近な例をもって説明されていますが、ここは次の文章を引用させていただくにとどめたいと思います。
日が悪かろうが、方角がどっちを向いていようが、干支がどうであろうが、「どんなことがあっても、あなたを捨てることのない私がいるのですから、つまらないことを気にせずに、フラフラせずに、いただいた『いのち』を一日一日大切に生きなさいよ」と、よびかけてくださる如来さまのお心がいただけた、この身に届いたのが信心です。
だから、如来さまのお心が届いたら、「ああ、そうだった、そうだった。誰がどう言おうと、日が良かろうと悪かろうと、二度とない人生、やり直しのきかない今日一日を、大事に大事に生きて行こう。なんまんだぶ、なんまんだぶ」と、いただいた「いのち」を、真っすぐに歩んで行く日暮らしが与えられるのです。それが、親鸞聖人の教えてくださった現世利益なのです。自分の都合のいいことだけをお願いして聞いてもらうのが、現世利益ではなく、この「いのち」が本当に生きれる人生をたまわるのが、現世利益なのです。(p.94)
また、第三の問いについては、「心の持ち方を説くのが宗教だ」という考えに対して、人間の性根は簡単には変わるものではない、「わかっちゃいるけどやめられない」(スーダラ節)のが私たちであることを、さまざまな例を出しながら説いておられます。浄土真宗の教えは優等生になるためのものではなく、また優等生にならなければ救われないものでもない。「優等生になるために寺へ参るのではなしに、優等生になりきれない私の救われていく道は、お慈悲に遇うしかないと気づいて、ご法話を聞」くものと語られます。
浄土真宗のみ教えからすれば当たり前のことではあるけれども、今日の社会通念にとらわれているとなかなかご理解いただけない。本書はそのような浄土真宗の教え、考え方を、わかりやすく説いた好著です。
(2001/6/11)
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