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五木寛之著『人生の目的』幻冬舎、1999年(1429円+税)

  『大河の一滴』、『他力』、『人生の目的』とつづく五木寛之さんの一連のエッセーは、とくべつにすぐれた宗教意識や専門の知識を必要とするものではありません。むしろ、いまという時代を生きるごく一般的な日本人に向けて、釈尊や親鸞や蓮如といった方々の説かれたおしえが生きる上での依りどころとなることを、小説家らしい感受性とわかりやすく潤いのあることばで説きしめしているところに、こららの本のすばらしさがあるように思われます。

 いずれの本もおススメですが、今回は『人生の目的』を取り上げてみました。現代社会を生きる我々の「人生の目的」を考えていって、なぜ釈尊や親鸞聖人のことばに突き当たるのか。お急ぎの方は、序章「なぜいま人生の目的か」と第四章「信仰について」と「あとがきにかえて」だけでもご一読されることをおススメします。
 以下、第四章の最後の一部分を少し引用させていただきましょう。他力を信ずるというあり方を、五木さんは、次のように、遠くに見える灯火にたとえて説いておられます。

いま私が闇夜の山道を、重い荷物を背負って歩いているとする。行く手は夜にとけこんで、ほとんど一寸先も見えない。手さぐりで歩きつづけるしかない有様だ。
 しかも、足もとにはきり立った崖が谷底へ落ち込んでいるらしい。下のほうでかすかに響く水音は、谷の途方もない深さを想像させる。
 目的地も見えない。うしろへ退くすべもない。といって、そのまま坐りこんでしまっても、誰も助けにはきてくれないだろう。進退きわまっても、行くしかないのだ。手で岩肌をつたいながら、半歩、また一歩とおびえつつ歩く。
 私たちの生きている様子とは、およそかくのごときものだ。はっきりと周囲が見えていると思いこんでいる人でも、じつは何時間かあとには生を失うこともある。交通事故もある。突然の病死もある。犯罪や戦争や天災も予測しがたい。
 私たちのなかで、だれひとりとして確実な明日が保証されている人間はいないのだ。そのことを暗夜の山中行にたとえてみるのである。不安と、恐怖と、脱力感で、体がふるえるのを感ずる。
 しかし、そんななかで、ふと彼方の遠くに、小さな集落の明かりが見えたとしたならどうか。
 いくべき場所、帰るべき家の灯火が見える。そしていつか雲間から冴えわたる月光がさしてきて、足もとの断崖の道も、山肌も、森も、くっきりと浮かびあがる。坂を歩く労苦には変わりはない。行く先までの距離がちぢまったわけでもない。荷物が軽くなるわけでもない。
 しかし、人は彼方の灯火に勇気づけられ、月光に思わず感謝のため息をつくだろう。そしてふたたび歩きだす。それを他力というのではないか。私はそう考えたい。
(pp.148-149)

 なお、五木さんのこれらのエッセーは、最近になって文庫版でも出版され、容易に書店で入手することができます。ぜひ手にとってご覧ください。

(2001/2/24)

バックナンバー

『朝には紅顔ありて』

『セブン・イヤーズ・イン・チベット』

『わたしの浄土真宗』

『うちのお寺は浄土真宗』

『人生の目的』



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