2:成長と出家:カピラヴァストゥ
■若き日の悩み
お釈迦さまは釈迦族の王子として、カピラヴァストゥ(パーリ:カピラヴァットゥ、カピラ城)で不自由のない生活を送られたとされます。16才にしてヤショーダラー(パーリ:ヤソーダラー)という名の娘と結婚し、一子ラーフラをもうけたと伝えられています。しかし幼くして実母を亡くしたせいか、物思いに耽ることが多かったようです。仏典は、お釈迦さまが自らの若き日を回想して言われたことばを伝えています。いささか長い引用ですが、青年シッダールタが何に悩まれていたのかを、お釈迦さまから直に聞くように感じられる文章です。
わたくしはこのように裕福で、このようにきわめて優しく柔軟であったけれども、次のような思いが起こった、--愚かな凡夫ぼんぶは、自分が老いてゆくものであって、また、老いるのを免れないのに、他人が老衰したのを見ると、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪している--自分のことを看過して。じつはわれもまた老いてゆくものであって、老いるのを免れないのに、他人が老衰したのを見ては、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪するであろう、--このことは自分にはふさわしくないであろう、と思って。私がこのように考察したとき、青年時における青年の意気(若さの驕り)はまったく消え失せてしまった。
愚かな凡夫は自分が病むものであって、また病を免れないのに、他人が病んでいるのを見ると、考え込んで、悩み、恥じ、嫌悪している--自分のことを看過して。じつはわれもまた病むものであって、病を免れないのに、他人が病んでいるのを見ては、考え込んで、悩み、恥じ、嫌悪するであろう、--このことは自分にはふさわしくないであろう、と思って。私がこのように考察したとき、健康時における健康の意気(健康の驕り)はまったく消え失せてしまった。
愚かな凡夫は、自分が死ぬものであって、また死を免れないのに、他人が死んだのを見ると、考え込んで、悩み、恥じ、嫌悪している--自分のことを看過して。じつはわれもまた死ぬものであって、、死を免れないのに、他人が死んだのを見ては、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪するであろう、--このことは自分にはふさわしくないであろう、と思って。私がこのように考察したとき、生存時における生存の意気(生きているという驕り)はまったく消え失せてしまった。(アングッタラ・ニカーヤ、III,38、中村元訳)
老・病・死という、いのちあるものであるならば誰もが避けられない問題について、若きお釈迦さまは苦悩されていたのでした。
また同様のことが、別の仏典では「四門出遊しもんしゅつゆう」という有名なおはなしとして描かれています。すなわち、あるときシッダールタ王子は城の東門から外へ出たとき老人を見て衝撃を受けられた。次に南門から外へ出て病人を見て衝撃を受け、さらに西門から外へ出て死人を見て衝撃を受けられた。そして最後に北門から外へ出て出家者に出会って感銘を受け、そして自らも出家された、というおはなしです。見落としてならないのは、お釈迦さまの出家のきっかけが老・病・死との出会いにあったことを、このおはなしは明らかにしているということでしょう。
お釈迦さまの出家の動機とは、つまり、仏教が起こるきっかけということになりますが、それが老・病・死という人間として普遍的な苦悩に端を発するものであったという点は、きわめて重要なことのように思われます。およそ人間であれば誰もが持つ苦悩を発端とし、それを乗り越える道を説くものであるからこそ、仏教は時代や民族・社会を超えた普遍性を持っているといえます。また、お釈迦さまは一人の人間として苦悩され、人間として道を求められ、そしてさとりを開かれました。これが、たとえば神とか霊のようなもののお告げのようなものを契機としてお釈迦さまが仏教を興されたとすれば、仏教はいまあるものとは全然ちがったものになっていたに違いありません。
スバッダよ、わたくしは29才で善を求めて出家した。(ディーガ・ニカーヤ、II、中村元訳)
お釈迦さまは臨終の際に、弟子スバドラ(パーリ:スバッダ)に対して、このように言われたといいます。お釈迦さまも、老・病・死を背負った一個の人間として生まれ、苦悩されました。しかしそれに屈するのではなく、その苦悩の中から、生きてゆく上で本当に「善きもの」を探し求めて出家をされたのでした。29才の時のことです。
■カピラヴァストゥの候補地の一つ、ピプラーワー遺跡
お釈迦さまの故郷、カピラヴァストゥ(カピラ城)がどこであったのか、いまのところ二つの候補地があがっています。一つはインド領内にあるピプラーワーで、もう一つはルンビニーから24Kmほど西北西に行ったところにあるネパール領のティラウラコートという所です。いずれがカピラヴァストゥであるかはまだ確定されていないようです。ピプラーワーからは「カピラヴァストゥ」の文字が刻まれた出土品がいくつか出ていることが知られています。
ピプラーワーはルンビニーから南に29Kmほど行ったところにあります。ストゥーパ(仏塔)と僧院の遺構が残されています。
●ストゥーパ
お釈迦さまが80才でその生涯を終えられた後、その遺骸は荼毘に付され(火葬され)、残った遺骨(仏舎利ぶっしゃり)はお釈迦さまに縁のある部族に分配されることになりました。このとき八つの部族が遺骨を分け合い、それぞれの郷里に持ち帰り、遺骨を納める仏塔を建てました。これがストゥーパの起源で、このストゥーパ(パーリ語ではトゥーパ)の語が中国では卒塔婆そとうば、塔婆とうば、塔などと漢訳されることになったのです。そう、法隆寺の五重塔なども、インドのお釈迦さまの遺骨(仏舎利)を納めるストゥーパに由来するのです。伝説によれば、最初は八つに分けられた仏舎利はアショーカ王によってさらに分配され、八万四千のストゥーパに納め安置されたとされます。
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ピプラーワーのストゥーパ
から発掘されたお釈迦さま
の遺骨を納めた骨壺。
高さ15cm。壺の上部に文
字が刻まれているのが見
える。1998年撮影。
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ところでこのピプラーワーのストゥーパからは、仏舎利を納めた骨壺が出土されています。これは1898年にペッペというイギリス人が上の写真のストゥーパを発掘したところ、地下6メートルの所から骨壺が発見されたのです。その骨壺は現在、カルカッタのインド博物館に保存されています。
骨壺には紀元前数世紀の文字で、
これはシャカ族の仏・世尊の遺骨の龕ずしであって、名誉ある兄弟ならびに姉妹・妻子どもの[奉祀したもの]である(中村元訳)
と学者によって読解される文が刻まれています。この理解によれば、この骨壺こそ、お釈迦さまが歴史上に実在していたことを証明する物的証拠とみなさるものとなります。なお、骨壺に納められた遺骨はタイ国の王室に譲り渡されていますが、その一部が日本の仏教徒に分与され、現在、名古屋の覚王山日泰寺に納められています。
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ピプラーワーは広い平原の中にストゥーパと僧院の遺構が残っているばかりのところでした。ただ観光客が来るとこの場所も他の観光地と同様に、物売りや子供たちがそれをめがけて集まってきます。しかしそんな中、スリランカの若い巡礼僧がちょうどこの地を訪れていました。インドの仏教遺跡で出会った巡礼僧はいずれも穏やかで知的な笑みをたたえた人々だったのが印象的でした。
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