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伝道:舎衛城と王舎城

■布教伝道の旅
 
鹿野苑での初めての説法は、お釈迦さまの生涯の中でも大きな転機でした。お釈迦さまは 、以後80才でなくなるまで、北インドのガンジス河中流域を中心として各地を歩き回りながら(これを遊行ゆぎょうといいます)、世の人々に法のともしびを広めつづけられることになります。
 お釈迦さまは弟子たちとともにあちこちを歩き回りながら、あらゆる人々に法を説かれました。そのために教団は急速に大きくなってゆくことになります。経典は、しばしばお釈迦さまが千二百五十人という数の弟子たちとともにおられたことを説いています。また、生まれ故郷のカピラヴァストゥにも帰られ、そこでも説法をし、一子ラーフラを出家させてもいます。

路傍のマンゴー園。お釈迦さ
まはしばしば、このようなマン
ゴーの林の木陰で法を説か
れたという。クリックして拡大

 ご承知のようにインドには雨季があります。この三ヶ月から四ヶ月間、お釈迦さまは弟子たちとともに一ヶ所に集まって、しばし定住生活をしました。これを「雨安居うあんご」といいます。この期間は弟子たちは各自が掘っ建て小屋を建てて雨露をしのぎ、勉学にいそしみます。そのためには一定の土地が必要となります。各地に安居の場所が寄進され、設けられることになりました。その最も有名なものが、西のシュラーヴァスティー(舎衛城、舎衛国)に設けられた祇園精舎であり、東のラージャグリハ(王舎城)に設けられた竹林精舎でした。ただし精舎といっても、いづれもお釈迦さまの当時には立派な建物があったわけではなく、ただの園林だったと考えられています。



舎衛城(シュラーヴァスティー)
 舎衛城
しゃえいじょう(あるいは舎衛国しゃえいこく、シュラーヴァスティー(パーリ:サーヴァッティー)はお釈迦さまの時代には強国コーサラ国の首都であり、交通の要に位置することから商業都市として繁栄していました。現在の地名でマヘートといわれるところがこれにあたります。

舎衛城遺跡風景。向こうに
見える遺跡はアングリマーラ
(指鬘外道)の故地と伝えられる。
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■祇園精舎
 舎衛城の南西方向の郊外にある祇園精舎(ジェータヴァナ・ヴィハーラ)は、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という『平家物語』の冒頭の句によって有名であり、またさまざまな経典が説かれた場所としてもなじみ深い場所です。『阿弥陀経』の冒頭にも、

如是我聞。一時仏在。舎衛国。祇樹給孤独園。與大比丘衆。千二百五十人倶。
このように私は聞きました。あるとき仏は舎衛国の祇樹給孤独園に千二百五十人の大比丘たちとともにおられました。

と出てきます。「祇樹給孤独園ぎじゅきっこどくおん」とは、梵文(サンスクリット文)によれば「祇陀(ジェータ)太子の園林、給孤独者(アナータピンダダ)の園において」ということです。祇陀園ぎだおん、祇園ともいいますが、同じことです。現在の地名はマヘートです。

祇園精舎の寄進を描いた
浮き彫り。バールフトの欄
楯に描かれたもので、前2
世紀頃のものとされる。
インド博物館蔵、1998年
撮影。クリックして拡大

 祇園精舎の土地はもともとコーサラ国の国王プラセーナジット(パーリ:;パセーナディ、波匿)の太子、ジェータ(祇陀)の所有する園林でした。あるとき、スダッタ(須達多)という仏教に帰依した長者が、お釈迦さまと弟子たちが居住する場所にと、この土地をジェータ太子から購入しようとしたのでした。スダッタの求めに対して、ジェータ太子は土地の広さに等しい黄金を要求します。そしてスダッタはその通り、園林の地面に金貨を敷きつめ、この土地を購入し、お釈迦さまの教団に寄進したのです。スダッタはまた、よく慈悲の心から、寄るべなき人々に食を支給したので、それにちなんで「寄るべなき人々(アナータ)に食(ピンダ)を支給する人(ダ)、アナータピンダダ」、漢訳して「給孤独きっこどく」というあだ名で呼ばれていました。この「給孤独者の〔購入した〕祇陀太子の園林(祇園)」に建てられた精舎が「祇園精舎」ということになります。

祇園精舎香堂(Temple2)。お
釈迦さまの居場所だったとさ
れる、祇園精舎で最も聖なる
場所に建てられた建物跡。
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香堂中央部から東に向かっ
て、最奥の居室を見る。
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祇園精舎一望。香堂から南
方に見おろした風景。
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◆◆◆

 祇園精舎跡はのどかな森の中にひっそりと残っており、寺院の遺構や沐浴池の遺構が静かに来訪者を迎えています。

祇園精舎の鐘について
 
ところで、『平家物語』に「諸行無常の響きあり」と歌われることによって、日本人にはなじみ深い祇園精舎の鐘ですが、これについては、『中村元選集[決定版]第11巻 ゴータマ・ブッダT』(春秋社、1992年)のp.704-706に詳しい注記がなされているので、興味のある方は参照下さい。同書には、(1)祇園精舎の鐘について言及する仏典として、中国の唐の時代の道宣どうせんという方が書かれた『中天竺舎衛国祇洹経』(大正大蔵経45巻、p.895b)や、日本では平安時代に源信が書かれた『往生要集』があり、前者には、祇園精舎に「無常院」と呼ばれる所があり、そこに備え付けられた鐘の音を病に伏した僧が聞くと「本心を失わずして善道に生ずることを得る」といったことが書かれている。(2)しかし、渡辺照宏『仏教』(岩波新書、p.6)によれば祇園精舎にはもともとは鐘はなかったらしいこと、等が指摘されています。
 近年の発掘調査によっても祇園精舎に大きな鐘はなかったという説が有力らしく、ちょっと興ざめな話です。しかし、現在では、遺跡からさほど遠くないところに、日本人によってりっぱな鐘楼が建てられています。(2004/3/6付記)



王舎城(ラージャグリハ)
 
王舎城おうしゃじょう(サンスクリット:ラージャグリハ、パーリ:ラージャガハ)は、お釈迦さまの時代にはやはりマガダ国という強大な国の首都であったところで、西の舎衛城とともに、お釈迦さまの伝道活動の大きな拠点の一つでした。現在の地名をラージギルといいます。王舎城には霊鷲山りょうじゅせん(あるいは耆闍崛山ぎしゃくつせん、サンスクリット:グリドゥラクータ、パーリ:ギッジャクータ)という名の小高い山があります。グリドゥラは鷲、クータは峰の意味で、山頂付近に鷲の形に似た岩があることからその名が付けられました。 

王舎城南壁跡。かつての城
壁都市王舎城を囲む城壁の
遺構が道路の向こうに見え
る。クリックして拡大
霊鷲山山頂付近にある鷲の
形をした岩。霊鷲山の名は、
この岩の形に由来するという。
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 お釈迦さまはこの霊鷲山にしばしば登り、法を説かれました。『大無量寿経』や『観無量寿経』や『法華経』などの大乗経典も、その説法の地をこの霊鷲山(耆闍崛山)としています。王舎城から霊鷲山に至るビンビサーラの道といわれる山道を20分ほどかけて登ると、山頂付近の鷲の形をした岩が見え、ほどなくして山頂の香室跡につきます。お釈迦さまがそこで説法をしたとされる場所です。

日没直後の霊鷲山山頂の
香室跡。クリックして拡大
霊鷲山山頂から眼下に原生
林を見る。クリックして拡大

 

■竹林精舎
 マガダ国の国王ビンビサーラ(ビンバサーラともいう、頻婆娑羅)は仏教に帰依し、王舎城から霊鷲山に至る山道を整備し、また王舎城内に竹林精舎(ヴェーヌヴァナ・ヴィハーラ)を仏教教団に寄進しています。

竹林精舎跡入り口。園内に
は竹林が植わっている。
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カランダカ池。竹林精舎跡に
ある沐浴の池。
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ビンビサーラ王の牢獄跡から
霊鷲山を望む。
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●王舎城の悲劇

 王舎城跡にはまた、ビンビサーラ王の牢獄跡があります。マガダ国王ビンビサーラが閉じこめられたという牢獄の跡です。いったい、なぜ国王が牢獄に閉じこめられたのでしょう。そこには次のような、一つの悲劇の物語がありました。

 (1)かつて王は、その妻ヴァイデーヒー(パーリ:ヴェーデーヒー、韋提希いだいけ)との間に子供を設けました。名前をアジャータシャトル(パーリ:アジャータサットゥ、阿闍世あじゃせ)といいます。しかしこのアジャータシャトルが出生するとき、その両親は大きな罪を犯してしまったといいます。
 善導の『観経疏』に説かれるところによれば、それはまず、ヴァイデーヒーがアジャータシャトルを身ごもる以前、まだ王に子供がなかったころのことからはじまります。王は子供がいないことを占い師に相談すると、山中に仙人がおり、三年後に命終えて王子に生まれ変わるといわれる。三年が待ちきれない王は仙人を殺してしまうが、仙人は死に際に「王は私を殺したのだから、私も王の子となって王を殺そう」と言い残します。
 さて、王妃が身ごもったことを知ったビンビサーラ王が再び占い師に相談すると、「この子は大きくなると王であるあなたを殺すことになろう」と予言されます。迷った王と王妃は、出産の際、高楼の上から地に産み落として死なせることにしました。ところが子供は地に堕ちても小指を損なっただけで命に別状はなかったのです。
 (2)大きくなったアジャータシャトルは、お釈迦さまの従兄弟でありながら仏教教団を乱したりお釈迦さまの命をねらったと伝えられるデーヴァダッタ(提婆達多、調達)にそそのかされて、父から王位を奪ってしまいます。しかしなお安心できないアジャータシャトルはついに王を七重の牢獄の中に閉じこめ、餓死させようとはかったのです。その牢獄跡が、いまも王舎城の遺跡に見られるというわけです。
 ところが牢獄に閉じこめられた王は、いつまでたっても餓死する様子はありません。なぜなら、王妃ヴァイデーヒー(韋提希)が自らの身体に食べ物を塗り込むなどして、牢獄の王に食物を与えていたのです。これを知ったアジャータシャトルは夫人が牢獄にはいることを禁じてしまいました。
 (3)結局、ビンビサーラ王は予言通り子供であるアジャータシャトルによって殺されてしまうのですが、やがてアジャータシャトルは自分の罪を悔い、お釈迦さまに救いを求めることになります。

 この王舎城の悲劇はさまざまな仏典に説かれていますが、有名なのは『観無量寿経』の冒頭に説かれるものです。『観無量寿経』には上述の(2)の部分が説かれています。ビンビサーラ王に食べ物を運んだヴァイデーヒー(韋提希)は、アジャータシャトルにそのことが知られると、自らも宮殿に閉じこめられてしまいます。かつては生まれようとする実子アジャータシャトルを殺そうと計った罪も忘れて、宮殿に幽閉されたヴァイデーヒーは霊鷲山(耆闍崛山)に向かって「悲泣雨涙」しながら、自らの不幸を嘆き、お釈迦さまに救いを乞うのです。『観無量寿経』は、このような親子の間に起こった悲劇をモチーフに、罪悪の人間が救われる道を説く経典なのです。

→王舎城の悲劇については、さまざまな仏典に説かれており、すこしずつ伝承の違いもみられます。詳細は、『浄土仏教の思想』第二巻、講談社、1992年、pp.47-73の末木文美士先生による御考察を読まれることをおすすめします。

◆◆◆

 王舎城(ラージャグリハ)の遺跡については、やはり霊鷲山への登山が印象に残っています。夕方の少し涼しくなりかけた頃からビンビサーラの道といわれる石畳の道を、かつてお釈迦さまや弟子たちが同じ道を歩いたことを思いつつ、一歩一歩登り、山頂につくと、眼下に雄大な光景が広がります。心地よい風に吹かれながら、二千四、五百年前もいまも変わらないのではないかと思わせる原生林に目を奪われているうちに、汗も引き、やがて日没を迎えました。お釈迦さまがそこで説法をされたという香室跡の向こう側に太陽が沈み、暑い一日が終わったのでした。

 

 

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