んとくじひろ

2003(平成15)年版

 

7月1日 第27回善徳寺婦人会総会並びに研修会

 例年、この研修会は天気に恵まれ、30度を超す暑さの中で行われていたのですが、今年はほぼ一日中雨の中で会が催さされました。参加者の皆さんには、足元の悪い中おいでいただくことになってしまいましたが、その分、気温も低く(最高気温24.8度)、本堂の屋根の下にいる限りは快適に感じられました。ときおり強く降る雨音を聞きながら、今年も法に触れるご縁をもたせていただくことが出来ました。
 今年の研修会は「生活の中の浄土真宗」をテーマに、「平生業成」ということについて、あるいは午後の御講話では、日々の暮らしの中でお念仏をいただくことの意義について、御講師の先生からお話を伺いました。

ーマ 生活の中の浄土真宗
講師  
野村了嗣師 (揖斐郡大野町、西光寺ご住職)
プ ロ グ ラ ム

10:30 受付
10:40 1.開会式
      1. 開式のことば
      2. 勤行(敬礼文・三帰依・さんだんの歌・念仏)
      3. 住職あいさつ
      4. 仏教婦人会綱領(唱和)
11:00 2.善徳寺仏教婦人会総会
      1. 会長あいさつおよび13年度行事報告
      2. 会計ならびに経過報告
      3. 会計監査報告
11:20 ……………休憩………………
11:25 3.研修会
      1. 浄土真宗の心得
      2. ビデオ(本願寺ビデオ『えしんにさま』)
12:15 …………昼食・休憩…………
12:55   3. 仏教讚歌
13:00   4. 講話「生活の中の浄土真宗」野村了嗣師
14:30   5. 話し合い
14:50 4.閉会式
      1. 会長あいさつ
      2. 恩徳讃
      3. 閉式のことば
15:00 解散

 親鸞聖人は、90才という、当時としては大変な長寿をされ、80才以上のお年になられてからの文章を数多く残されている。ご老年になってからのことばは、おそらくお若いときのものよりも、より柔らかく、優しいものであり、それが私たちに残されているというのは、ありがたいことです。−−御講師の野村了嗣先生には、さまざまな話題を織り交ぜながら、暮らしの中に息づく浄土真宗ということ、お念仏の種を家庭に植えることの意義について、終始なごやかに御講話いただき、ありがとうございました。
 当寺婦人会の皆さんには、どうか次の機会も参加いただき、ともに有意義な時を過ごしてくださいますよう。


1月4日〜7日 当山報恩講(含準備)

 今年は、元日は風もなく穏やかで暖かな一日でしたが、翌日から寒風が吹き出し、4日からの報恩講準備には、お世話方の皆様には冷たい風の中をおいでいただくことになりました。さらに5日午後からは雲行きが怪しくなり、夜になって雪が降り出しました。さいわい、6日朝には雪は止んだものの、15cm弱ほど降り積もった雪の中で報恩講が始まりました。報恩講にご協力いただいたお世話方の皆様、また足元の悪いなか御参拝いただいた皆様、どうもありがとうございました。また、今年も布教には滋賀県より那須野浄英先生にお越しいただき、お世話になり、ありがとうございました。

行事次第:

1月4日午前 報恩講準備 お華束づくり
  5日午前   〃     お華束づくり、幕張り、おとき準備、他
  6日終日 報恩講当日
          10時 勤行・布教
          12時 お斎とき(食事)
          13時半 勤行・布教
          19時 勤行・御伝抄拝読・布教
  7日午前・午後 報恩講
          10時 勤行・布教
          13時半 勤行・布教

写真記録:

4日:例年どおり、報恩講の準備は
お華束づくりから始まります

5日:おときの用意。
今年は小さいカメラマンに記録を
依頼したところ、思いがけず食べ物の写真が
多く撮れていました。

5日:まる揚げの調理

5日:大根とにんじんのなます作り

5日:食器の用意

5日:炊いて味付けをしたこんにゃく

5日:炊事場でおときの準備が
されている頃、男性陣によって
お華束作りや幕張りなどが進められます

5日:本堂の飾り付けも終わり、
門前の提灯や仏旗もたてられて、準備終了。
しかしなにやら雲行きが怪しい……

6日朝:夜に降り積もった雪の中で
今年の報恩講は始まりました

7日午前の法座より

 「私たちは、急がずでもよいどうでもいいことを急いでいる。大事なことを忘れている。私たちにとって一番大事なことは、『われらが後生の一大事』を聞き味わうことではないでしょうか。真実の言葉を何度も何度も聞いてると、言葉は変わらないけれども、聞いたわたしが変わる。……
 『帰命無量寿如来』の帰とは、仏さまのおおせにすべてをゆだねることです。それはたとえば、イスに身をゆだね、イスに寄りかかるようなものであると言われています。イスに掛けてご覧なさい。イスに寄りかかった人の姿は、イスの姿になるでしょう。いまの阿弥陀様に帰命する、たのむということもそういうことなんです。それは、すべてを相手(阿弥陀様)にゆだねてゆくことであります。ゆだねたかたちがじつはどういうかたちかというと、『信心の行者』というかたちです。……助けてくださる阿弥陀様のはたらきにゆだねるということが、そのまま助かるわたしなのです。……」(七日午後の法座より)

いつも感じることながら、お寺の本堂で法を聞くということは、たとえば家の居間でテレビやラジオを見聞するのとは、まったく違う体験です。いわば、自分を取り繕うことのない素の私が、法に出遇い、仏に出遇い、自分に出遇う、というこの経験は、本堂に足を運んでいただいてこそ感じられるのではないかと思います。そしてそれは、けっしてかたぐるしい時間ではなく、ときおり笑いもあり、しかし、たしかに日常の時間では得られない生の深い意味に触れることのできるものです。どなたも、またのご縁においで下さい。

 


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