善徳寺は親鸞聖人を宗祖と仰ぐ浄土真宗本願寺派(お西)のお寺です。

 浄土真宗の寺院は、誰もがわけへだてなくみ教えを聞くことのできる「聞法の道場」「念仏の道場」として、時代の流れをこえて、ともにお念仏をよろこぶ御同行・御同朋によって守りうけつがれてきました。

 私たちは人間として、ともに老病死の苦悩をかかえながら、時代や社会の制約の中に生きています。とりわけ現代社会は、人間の生活を物質面では豊かなものにしましたが、依然として人間としての苦悩は絶えません。むしろ、さまざまな普遍的価値観や共通の基盤を失わせることによって孤独感をより深め、自分が生きていることの意味を見出しがたくさせています。いまこそ、私たちは、自分がこの宇宙に一度きりの現象として生を与えられたことの意味を問う必要にせまられているのではないでしょうか。自己と他者をともに尊重するには、互いにかけがえのない命を与えられ、かけがえのない時間を共有しているという原点に立ち戻り、また常にその認識を深めてゆくことが求められているのではないでしょうか。

 お釈迦さまは老病死の苦悩を解決しようとして出家され、後に生死を超えるさとりの智慧を得て、人に法を説かれました。また、その法の流れを受け継がれた親鸞聖人は、やはり「生死出づべき道」を求められ、そして罪悪凡夫の自覚の中にありながら阿弥陀仏の本願に救われるよろこびを見出されたのでした。

 善徳寺は、親鸞聖人のみ教えを伝える「聞法の道場」「念仏の道場」の一つとして、より多くの方々に法のともしびが伝えられることを願って地域社会に存在しています。「生死出づべき道」を聞く場所としてのお寺に、どうかお越し下さい。実際に足を運んでお寺にお参りし、聴聞してこそ得られるものがきっとあるはずです。

 


 

当流のこころは、あながちにもろもろの聖教をよみ、
ものをしりたりというとも、
一念の信心のいわれを知らざる人は、
いたずら事なりとしるべし。
当流のこころでは、つとめて多くの聖教を読み、もの知りになったとしても、一念のご信心のいわれを知ることがなければ、それも役に立たぬことであると心得てください。

蓮如上人ご文章(八万法蔵章)より

 

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