無盡燈(尽きることのないともしび)とは、『維摩経(ゆいまきょう)』という大乗経典の中に説かれる寓話の一つであり、法が人から人へと伝えられてゆくことの豊かさを巧みなたとえをもって説くものです。それはこんなお話です。

 あるとき、維摩という仏法によく通じた人が病気だというので、天女たちが見舞いにやってきます。その天女たちというのは、それまで欲望の楽しみばかりになじんでいたのですが、維摩の説法によって、仏法を聞き、味わい、喜ぶことを知ることになります。しかし、やがて彼女たちはそのすみかである魔宮に帰らなければならないことになります。もはや欲の楽しみにではなく法の楽しみを喜ぶ天女たちは、欲望に満ちた暗黒の魔宮で自分達はどのように暮らせばよいのかと維摩に尋ねます。そこで維摩は次のように答えるのです。長尾雅人先生によるチベット語訳『維摩経』からの和訳を少し引用させていただきましょう。

『諸姉よ、“尽きることのないともしび(無尽燈)”と名づけられる法門がある。それを(学んで)努力しなさい。それは何か。諸姉よ、一つのともしびから百・千のともしびが点火されても、かのともしび(の明るさ)が減るわけではありません。それと同じく、ひとりの菩薩が百・千の多数の人々を菩薩のなかに導き入れても、かの菩薩の(菩提の)心に対する記憶は減らないし、減らないだけでなく増加するものです。同様に、あらゆる善の法も他に対して説かれたとき、説かれるに応じて、それらの善はすべて増大する。これが無尽燈と名づけられる法門です。』

 法を人から人へと語り伝えるということは、あたかも真っ暗闇のなかで、ともしびを一灯から一灯へと次々に点火するようなものである。ある人が法というともしびを他の人に伝えても、もとの人の法のともしびの明るさはけっして減るわけではなく、かえって人に説くことによって法の記憶は一層確かなものになる(ともしびはより明るくなる)。また、人から人へと法のともしびが伝えられてゆくとき、法のともしびはそれだけ増えてゆくことになる。つまり、法は語り伝えてゆくことによって尽きることのないともしびとして、自己と世間をよりいっそう明るく照らすことを、このたとえ話は説いているのです。

 このホームページはごくささやかなものにすぎませんが、法を世に伝えるともしびの一つでありたいとの願いから、そのタイトルを「無盡燈」と名づけさせていただきました。

もっとよく知りたい方へ:長尾雅人先生による『維摩経』の和訳は、『改版 維摩経』(中公文庫D6-2)、1983年刊のものを使わせていただきました。引用部分は、同書p.64-65に見られます。

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